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旅立ちの準備

 むかしむかし、ある男が一攫千金を目論んで海に船を出すことにした。まだ世界に知られざる土地のあった時代のことだ。海の向こうには金銀財宝が思うがままにできる黄金の島があるという。また、もしそんなものが無くとも、新しい航路が拓ければそれを使った貿易で一儲けできるだろう。それは男にとって、敗けのない戦いであった。少なくとも、なにかしらにたどり着けたとしたら。もちろん、どこにもたどり着けない、つまり遭難し、難破し、漂流し、つまり、失敗、その先は死だろう。その可能性は否定できないし、むしろかなり高いと言ってもいいかもしれない。むかしむかしのこと、造船技術も、航海術も、医療技術も、まだまだ未熟だった時代だ。
 男は慎重な性格だったので、念入りに準備をした。どんな流氷がぶつかっても壊れない船を作り、充分な水と食糧、筋金入りの海の猛者たちを雇った。準備万端である。少なくとも、できる限りの準備はした。
 そして、ついに船出の朝が来た。港には男を見送る人がたくさん集まった。男の挑戦を応援するものもいれば、嘲笑するものもいた。これはいつの時代も変わらないことだけれど。男は人々に別れを告げ、船に乗り込んだ。と、思ったら戻って来た。人々は男に尋ねた。
「いったいどうしたんだ?」
「ふむ」と男は答えた。「まだ準備に不備があるように思うのだ。船出するからには、完璧で完璧な準備をした上で船出しなければ」
「準備万端ではなかったのかね?」
「いや、まだ不安がある」
 というわけで、男は準備を完璧で完璧なものにするべく、また準備を始めた。人々はすぐに船出になるだろうと思っていた。なにしろ準備はほとんど完璧に終わっていたのであり、そのほんの少しの足りないものを補えばそれでいいのだ。しかし、それは予想以上の時間を要した。探せば不備はいくらでも出てくるのだ。いつの時代もそういうものである。あの時船出をしなくて良かっただろう?と男は胸を張って言った。人々はそんなものかと思った。
 そしてまた船出の日が来た。港には男を見送る人がたくさん集まった。とはいえ、最初のときほどは集まらない。人々の期待も時間がたつと冷めるもの。いつの時代もそういうものだ。男は人々に別れを告げ、船に乗り込んだ。と、思ったらまた戻って来た。人々は男に尋ねた。
「いったいどうしたんだ?」
「ふむ」と男は答えた。「まだ準備に不備があるように思うのだ。船出するからには、完璧で完璧に完璧な準備をした上で船出しなければ」
「準備万端ではなかったのかね?」
「いや、まだ不安がある」
 人々はなんだか一度見た光景だな、と思った。けれども何も言わなかった。船出をするのは男である。その男が不備があるというのならそうなのだろう。賭け金は男の命なのだ。他人がどうこう言えることではない。
 男はこうして船出の準備をして、船出をしようとし、その間際にそれを中止してまた準備するということを続けた。男は良く言えば完璧主義者、悪く言えば心配性だったのだ。そうこうしているうちに男は年老い、結局船出することなく今際の時となってしまった。
「ああ」と男は呻いた。男の枕元には看護人が一人いるだけだった。男は看護人に言った。「俺の人生から得られる教訓があるとしたら、それは完璧などというものは無いということだ。なにかを得るには、なにを置いても飛び込まなければならない瞬間があるのだろう」
 男の枕元に死神が立った時、男は死神に「まだこの旅立ちの準備が出来ていないんだ」と訴えたが、死神はそんなものには聞く耳持たず、否応なしに男を連れて行った。

No.268

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