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すべての引かれ合う力

 彼が選んでくれた変な色のアイシャドーを捨てた。つまんでいた指を離すと、スッと落ちて、ゴミ箱の底に当たって派手な音を立てた。いや、そんなに大きな音じゃない。わたしの中では大きく鳴ったってことで。たぶん、部屋が暗いせいだ。
「万有引力」と彼が言ったのを思い出す。「すべて、物と物は引き合っているんだ」
「わたしと、君も?」と尋ねようかと思ったけれどやめた。バカみたいだし、完全にバカみたいだからだ。だから、わたしは黙っていた。
 わたしたちは博物館にいた。科学博物館、彼のお気に入りの場所だという。
「子どもの頃、大好きだったんだ」と、彼。「でも、ぼくの住んでたところからだと、ここに来るまでにバスに乗って、二回も電車の乗り換えがあったんだ。子ども一人では来られない。親にせがんで、それで連れてきてもらってた」
 そこの廊下を、わたしと大人になった彼は歩いていた。少し薄暗くて、大理石の古めかしい柱、絨毯、足音が響く。小学生くらいの子どもが走ってわたしたちを追い抜いて行った。
「行こう」と彼は言って、足早になった。わたしも、置いて行かれまいと小走りになる。先を行く子は、光の溢れる部屋に消えた。わたしたちも、飛び込むようにその部屋に入る。
 わたしは声も漏らせなかった。それのあまりの大きさに、ただただ驚いていた。
「これ、なに?」
「ティラノサウルス」と、彼は言った。
 それはあまりに大きくて、その大きな口にはナイフのような鋭利な歯が並び、なにからなにまで大きくて、それに筋肉がつき、動いて、歩き回るのを想像するのが難しいくらいだった。巨大な、架空の生物の骨のオブジェを芸術家が作りました、と言われた方が釈然とする。わたしはただただそれを見上げていた。たぶん、口は開きっぱなしだったと思う。それはかつて、生きていた。生きて、歩き回り、なにか、たぶん他の恐竜を食べ、糞をして、卵を産んで、眠って、そして死んだ。死ぬまで生きた。それはあまりに現実離れしていた。
「これが大好きだったんだ」と、彼はわたしのうしろで言った。「これを見るために、ここに来てた」
 少し離れたところで、わたしたちを追い抜いて行った子もそれを見上げていた。
「恐竜が好きだったの?」と、わたしは彼に尋ねた。少し意外だったからだ。彼は星や宇宙についての研究者を目指していた。てっきり、子どもの頃から天体少年だったのだと思っていたのだ。
「子どもの頃にはね」と彼は答えた。「でも、ある日ふと思ったんだ。夜空を見上げた時に。これと同じ星空の下で、恐竜たちも眠っていたのかもしれないって。もしかしたら、月が出るのを見上げた恐竜もいたかもしれない。そう思ったら、がぜん星に興味がわいてきた。と、そういうわけ」と、彼は肩をすくめた。
 その帰り道、通りかかったドラッグストアに入った。一緒に夕食を食べて、もうあとは帰りの電車に乗るだけだったのだけれど、もしかしたら名残惜しかったのかもしれない。時間稼ぎ。もう少し一緒にいるための。どちらがそうしようと思ったのかはわからない。もしかしたら、共犯関係だったのかもしれない。
 そこで、アイシャドーを選んでもらった。もちろん、彼が化粧品や、メイクに詳しいなんて期待をしていたわけじゃない。むしろ、期待していなかった。ただ、なんとなく。彼の選んだものを身につけたいような気がしたんだと思う。それで、アイシャドーを選んでもらった。当然、彼はどれを選ぶべきか迷った。そんなものを選んだことなんてないだろうし、そもそも化粧になんて興味が無いだろうし、美的感覚のようなものに関しても疑問符が付くのが彼だ。そして、なんとかかんとか選んだのは変な色のアイシャドーだった。わたしは少し、嬉しかった。
「似合うかな?」
「たぶん」と、彼は自信なさげに言った。
 恐竜たちが滅んだのは、おそらく小惑星が地球に衝突したせいだと、教えてくれたのは彼だった。万有引力、すべての引き合う力。ゴミ箱の底の音。死に絶えた恐竜たち。わたしは夜空を見上げる。
 彼もどこかで、この、恐竜たちも見上げたであろう星空を、見上げているのだろうか。


No.395


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