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間が悪い

 若者がいるのが見えるだろうか?さわやかな笑顔、きびきびした立ち居振る舞い、見るからに誠実そうな彼が今回の語り手だ。今、まさに語り出そうとしている。さあ、彼が語るのに耳を傾けようじゃないか。
 彼が口を開き、最初の一語を発声しようとした瞬間、彼の弟がやって来た。
「兄さん!」
 間が悪い。
 彼の弟の手には教科書が握られている。数学の教科書だ。
「この問題、どうやるのか教えてよ」
 彼の弟は数学が苦手なのだ。では彼は数学が得意なのか?彼も数学が得意ではない。彼の弟よりも彼の方がまだましと言った程度だ。
 彼は弟想いなので問題を見てやることにした。しかし、彼だって数学が得意なわけではないのだから、その問題に四苦八苦、やっとのことで正解に辿り着いたかと思えば、今度は自分よりも物分かりの悪い弟にそれを理解させなければならない。彼の倍ほどの時間をかけて弟はやっとそれを理解した。
「ありがとう、兄さん」
 彼の弟はニッコリ笑って去って行った。 おそらく彼は無上の喜びを感じているだろう。
 さて、気をとりなおして彼が語るのを聞こう。彼は咳払いをする。さあ、語り出すぞ。
「息子や」彼の母親が彼を呼んだ。「ちょっと頼まれてくれないかね?」
 間が悪い。
 彼が行ってみると、彼の母親が山盛りの洗濯物を篭に押し込んでいる。「これを干しといてくれないかい?」
 彼は母親想いなので、母親の頼みを聞くことにした。皺をのばし、洗濯ばさみで留める。やたらとタオルがあるのに気がついた。なんて手間なんだ、これからはなるべく洗濯物を増やさないようにしよう、と彼は内心思っているかもしれない。
 さあ、洗濯物を全て干し終えた。今度こそ、今度こそ彼の語りを聞こう。彼が息を吸い込む、さあ話し始めるぞ。
「おーい、息子や」彼の父親が彼を呼んだ。「こっちに来て、ちょっと肩を揉んでくれんかね」
 間が悪い。
 しかし、彼は父親想いなので、父親の肩を揉んであげるのだ。こうして改めて見ると、父親の背中も小さくなったな、と彼が思っているかどうかは定かではない。とにかく、父親が満足するまで、父親の肩を揉み、話を聞いてあげる。他愛もない話や、何度も聞いた昔の自慢話等々。表面的には彼はそれをにこやかにこなしている。もしかしたら、内心はイライラしているかもしれないが、そこまで踏み込むことはできない。それは彼自身に語ってもらう他ないだろう。
「ありがとう、息子よ」
 父親の肩を揉み終えた彼は、いよいよ、ついに、語り出そうとしている。我々としても、彼に聞きたいことはたくさんあるだろう。さあ、彼に語ってもらおう。
「ちょっと、ダーリン!」
 彼のガールフレンドがやって来た。
「いるんでしょ?」
 間が悪い。彼は肩をすくめた。彼はどうやら多忙なようだ。何かを語ることなどできそうにない。それには今は間が悪いらしい。ま、仕方ない。
というわけで、今回は何も語られないのだ。

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