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この体の中には憎悪が流れている

「おれは死に瀕していた」と彼は話し始めました。「身体は傷だらけだった。はっきり言って致命傷だ。助けを待ちすらしていなかった。待っていたのはお迎えさ。早く楽になりたいとだけ思っていた。おれが待っていたのは死の瞬間だった」
 わたしは黙ったまま頷きました。
「おれは物乞いをしていたんだ。一文無しだった。善意につけこまれ、転落したかと思えば、転がり落ちた先で面白半分になぶられた。はっきり言って、おれはこの世界を憎んだ。みんな死んでしまえばいいと思った。まあ、その前におれが死んでしまうだろうと、その瞬間思っていたわけだけどな」
 彼は世間では成功者と見なされていました。大企業を一代にして築き上げた敏腕経営者。その力は、政治の世界にまで及んでいるというもっぱらの噂でした。おそらく、手に入れられないものなど無いのでしょう。彼の要求を拒んだわたしを、驚いた顔で見ていた彼を思い出します。「金で手に入らなかったのはお前ぐらいだ」と彼は言いました。
 てっきり、わたしは彼は産まれながらの支配者であると思っていたのです。彼のその、身の上話を聞くまでは。彼が過去に落ちぶれていたなどとは想像もできませんでした。しかも、死に瀕していたのです。
「そこに悪魔が現れた」と彼は話を続けました。「信じなくてもかまわないが、あれは正真正銘の悪魔だ」
「信じます」わたしは言いました。
 彼は鼻で笑いました。「おれにはいまだに信じられない。しかし、おれがこうして生きていて、そして全てを手に入れたということが、それの証明なんだ。悪魔は死にかけのおれに言った。『死にたくないか?』と。おれはぜいぜい荒い息をしながらどうにか答えたよ。『死にたくない』と。すると悪魔は笑ったんだ。まともな状態なら、背筋が凍るような笑みだったが、あいにくおれは瀕死の状態で、とてもじゃないがそんな余裕は無かった。悪魔は言った。『お前さんの憎悪が気に入ったよ』と。『これからお前の身体を流れるのは血液ではなく、その憎悪となる。お前の心臓がその憎悪を送り出す限り、お前は生き続けるだろう』悪魔はそう言うと姿を消した。おれの傷は癒えていた。おれは自分の生まれ変わったのがわかった」
 わたしは息を呑みました。
「それからはトントン拍子だった。おれには人の憎悪が見えるようになった。その流れが見え、それを操ることができた。親友同士を仲違いさせるのなんてわけなかった。愛し合う恋人同士に殺し合いだってさせられただろう。人々はおれの意のままに動いた。憎悪というのは、それくらい強く、また人間の必ず持っているものだ。そうして、おれは金を稼いだ。おれをいたぶったやつらを片っ端から打ちのめしてやった。おれの憎悪はおれの燃料だ。スカッとしたね。やつらがビルから飛び降りるのを見たとき、おれは笑いが止まらなかった。だが、そんなのはほんの一時さ。金が手に入れば、人が集まって来る。どいつもこいつも金目当てのろくでなしさ。誰もおれのことなんか気にかけやしない。気にかけているのは、おれの金だけだ。おれはそいつらを憎悪した。そいつらをバカにするやつらを憎悪した。どうせそいつらも一皮剥けば同じだ。おれに無関心なふりをするやつらを憎悪した。おれの憎悪は留まるところを知らなかった。おれの心臓はどんどん憎悪をおれの身体に供給した。おれは自分が強くなっていくのを感じていたよ。そんな時だ。お前が現れた」
「わたしが?」
「お前がおれに最初に言った言葉を覚えているか?」
「可哀想な人」
「そうだ。お前はおれにそう言った。月並みでヘドが出る。だが、それこそおれを評するに正しい言葉だ」
 彼は涙を流しました。
「おれは孤独だ」
 わたしは彼の身体に腕を回そうとしました。彼が迷子の子供のように見えて、慰めたくなったのです。
「よせ」彼はわたしの腕を払いました。
「なぜ?」
「言わせるな」
 わたしは黙り込みました。
「この体には、憎悪が流れている。それが失われれば、おれは死ぬだろう」
 そして、彼は黙り込みました。そうして、地面の一点を見つめました。なにか重大な決断をしようとしているのが見て取れました。わたしは彼を待ちました。彼が何か言うのを。なにかを決断するのを。
「ああ、おれはお前に愛されたい。たとえこの体を流れる憎悪が失われたとしても、お前を愛したい」そう言うと、彼はわたしの胸に顔を埋め、そして、死にました。

No.322

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