見出し画像

魂が迷わないように

 彼女はその獣を屠る間ずっと、低い声で何かを呟いていた。それには節のようなものがあった。聴いていると、拍子も感じられた。それは歌のようであった。
 わたしは耳を澄ました。なんと歌っているのか聴き取ろうとした。録音機器を持って来なかった不首尾を心の中で嘆いていた。わたしがどんなに嘆いていても、彼女はわたしに一瞥すらくれない。黙々と、その獣を捌いていく。わたしは息を潜め、彼女の歌声に耳を澄ましながら、その獣がまだ生きていた時のことを思い出す。
 彼女は息を潜め、その獣に狙いを定めていたのだった。
「銃が入ってきてから」と、狩りに出る前に、彼女は話してくれていた。「狩りはやりやすくなりました。それでも、変わらないものもあります」
 彼女は口数の少ない人であった。それはその村の人々に共通の性質であるようであった。無駄なことは喋らない。黙々と田を耕し、漁をし、狩りをする。外部とは隔絶した村であった。電気も通っていなかった。日の出とともに目覚め、夜になれば眠る生活である。文明らしいものは、その銃くらいのものであった。
 わたしはその村に調査のために来たのだった。ほとんど外の土地と交通を持たない村の習俗を調べるためである。わたしはそこから、我々の祖先たちが古来持っていたものを推察しようと考えていたのだ。その村には、それがまだ生き残っているのではないか、そう考えたのだ。我々はどこから来て、どこへ行くのか、それはいつの時代にもわたしたちを魅了するテーマだろう。多くの人々がその謎の解明を求め、様々な方法でそれに挑んできた。そして、わたしもまたその大きな謎に心奪われたひとりである。わたしは大きな成果を期待しながらその村を訪れた。
 しかし、現実は哀しいものである。無垢と信じていたものは無垢ではなかった。確かに交通は無いものの、伝統は廃れつつあった。若者たちはどの土地でろうと同じで、新奇のものを好んだ。村を出て行きたいというのがありありと見てとれた。わからないではない。そのくらいの年頃であれば、大人たちに反発するのは当然だろう。その反発する力の行き先として、恰好のものとして都会が、文明があるのだ。それを目指すのがむしろ自然だろう。炉端での年寄りの昔話よりも、未知の都会での経験を求めることを誰が否定できよう。しかしながら、村を出たところで、彼らが都会で何をできるというのか。食い物にされるのが落ちだ。
 彼女は、他の同年代の若者たちとは違い、その習俗を墨守する人だった。わたしはなかなか彼女に口を利いてもらえなかった。余所者のわたしを拒絶していたのだ。狩りに連れていってもらえるようになるまでにかなりの時間を要した。それは神聖な行いであり、ある種の儀式ですらあると、その村では古来より考えられていたからだ。
 獲物である獣を見つけ、彼女は息を潜めた。わたしもその後ろで同じように息を潜める。獣が足元の草を食んでいる。その動作を止め、辺りを見渡す。耳を小刻みに動かす。物音を聞こうとしている。何か不穏なものを感じている。生きて、感じている。わたしの鼓動が高鳴る。彼女の息遣いは聞こえない。わたしは彼女がそこにいることすら忘れそうになった。気配というものがまるで無いのだ。獣が感じ取っていたのは、わたしの存在になのである。
 彼女は自然な動作で引き金を引いた。そして弾丸は発射され、通るべき弾道を通り、獣に命中した。獣は悲鳴を上げることすらできずに倒れた。その一連はかくあるべくあるといった具合であった。獣は実に安らかな死に顔をしていた。
 屠る間には口を利かないように言い渡されてあった。わたしは黙ってその様子を観察していた。彼女は速やかに獣の息の根を止めた。そして、その場で解体を始めたのだ。濃密な血の匂いが辺りに充満する。それは生の臭いであり、死の臭いだ。そのふたつは対立するのでなく、相補的なのだと、その時わたしは悟った。その間、彼女はくだんの歌をずっと口ずさんでいた。低い声で。
「魂が迷わないようにするためなのです」
「動物にも魂が?」
 彼女は見たことのない獣を前にしたような目付きでわたしを見た。「もちろん」彼女はそう言った。「だからこそ、わたしたちは彼らに敬意を払わねばなりません」
 わたしはどうにか彼女の歌声を記憶に留めようとした。しかしながら、それは不首尾に終わった。わたしはそれを覚えていない。あるいは、録音をしたところで、それは十全に録れなかっただろう。あの歌はそうしたものだったのだ。あれは単なる音ではなく、もっと違う何かだったのだろうと、わたしは思う。
 わたしが死んだとき、わたしの魂は迷ってしまうだろうか。


No.410


兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで

201話から300話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?