見出し画像

Fly me to the moon

「わたしを月まで連れて行って」と、彼女は言った。微笑みながら。満月の夜のことだ。寒くて、空気がピンと張り詰めていた。吐く息は驚くくらい白かった。真円の月は、漆黒の闇夜に穴を穿っているかのようだった。もうじきそれは中天に昇るだろう。
「月って」と、ぼくはその満月を指差しながら言った。「あの月?」
「あの月」と、彼女はうなずいた。「他にどんな月があるの?」
 ぼくはしばらく考えた。衛星という意味でなら、他の惑星もそれぞれ地球にとっての月にあたるものは持っているだろうが、月と言って指されるのはあの夜空に浮かぶ月の他には無いだろう。そもそも、他の惑星の月にあたる天体まで連れて行くのは、地球の衛星である月に連れて行くよりも困難だろう。いや、どちらにしたことでも不可能か。
「あそこまで行くには」と、ぼくは言った。「地球十周するだけの距離を移動しなきゃならないよ。しかも、あそこまでの道路が親切に敷設されてるわけでもない。君を連れて行くことなんてできないよ」
 彼女はため息をついた。彼女の失望が言葉よりも明確に伝わってきた。「見損なった」と、彼女は言った。
「うん」と、ぼくは言った。「ごめん」
 彼女はもう一度ため息をついた。
「でも、連れて行けないものは連れて行けないよ」
「まったく」彼女はそう言うと、ぼくの手首をギュッと掴んだ。そして、有無を言わせずにぼくを引っ張って行く。
「どこに行くの?」ぼくは尋ねた。
「学校」
「学校?」ぼくらの学校は町を見下ろす高台にあった。
「こんな真夜中に?」学校には様々な怪談があり、それのほとんどすべては夜中に起こる話だった。「やめようよ」と、怖じ気づいたぼくは言おうとしてやめた。すでに見損なわれていたにしても、さらに見損なわれるなんて耐えられない。
「真夜中だから」と、彼女は言った。「急いで。月がてっぺんまで来ちゃう」彼女は足早になり、小走りになり、走り出した。学校で一番の俊足の彼女について行くのは大変だったけど、ぼくは必死の思いであとを追いかけた。足が重い、息が上がる。彼女が足を止めたことで、学校に着いたことがわかった。
 彼女は閉ざされた校門の前で頭の真上の満月を見上げていた。
「早く」と、ぼくを手招きする。「月の引力と、地球の遠心力で、月まで行けるから」
「ウソでしょ?」ぼくは思わずそう言った。
 彼女はぼくを睨んだ。「ウソじゃない。ほら、早く来て」そして、ぼくに手を差し伸べる。ぼくはその手を握る。ちょっとドキドキしながら。彼女の手は、とても熱かった。
 頭の真上にある満月をぼくも見上げた。夜空に穿たれた白い穴のような月を。それをジッと見ていると、なんだかそれが少しずつ大きくなって来ているような気がした。いや、間違いなく大きくなっている。ぼくは目をこすった。目の錯覚か何かだと思ったのだ。しかし、それはどんどん大きくなっている。間違いなく、大きくなっている。ぼくは隣にいる彼女を見た。彼女はぼくの視線に気づき、ぼくに下を見るように促した。イヤな予感がした。恐る恐る、ぼくは足元を見た。そこにあるべき地面が、ぼくの足を支えているべき地面が、そこには無かった。町の明かりが、それこそ星々のように心もとなく光っていた。
「飛んでる!」
「うん」と、彼女は言った。「もう少しで着くよ」
 ぼくが視線を頭上に戻すと、もう月は目と鼻の先だった。そして、宙返りをして着地した。月の上に。それは思ったよりも小さくて、柔らかくて、温かかった。仄かな月明かりは、さらさらと気持ちよかった。ぼくらはそこに腰掛け、地球を見下ろしていた。その天体の表面には、星のように小さな明かりがきらめいている。窓から漏れる明かりだろうか。その一つ一つに、もしかしたら誰かの生活があるのかもしれない。そんなことを思った。
「はじめて見た?」と、彼女はぼくに尋ねた。
「うん、はじめてだよ」と、ぼくは言った。
「きれいでしょ?」
「うん、とてもきれいだ」ぼくは言った。「どうしてぼくをここに連れて来てくれたの?」
「君の体重がちょうど良かったから」と、彼女は言った。「わたしと、君の体重を合わせると、ちょうど月まで飛んで来られる重さになったの。重すぎもせず、軽過ぎもせず」
 ぼくはその答えにちょっとガッカリした。
「ガッカリした?」彼女は尋ねた。
「いや、別に」と、ぼくは答えた。
 彼女はぼくを見つめていた。
 ぼくも彼女を見つめていた。
 そして、ぼくらはキスをした。


No.398
 

兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで

201話から300話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?