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「わたし」抜きの人生

「あなたは死にました。そして、今日はあなたの死んだ日の翌日です」と萎びた男に告げられ、なんのことだかちっとも理解出来ずに目をしばたいた。
「なんのことだ?」と問うと「あなたは死んだんです」と落ち着いた口調で答えられた。
「じゃあ、今ここでこうしているのはなんだ?」
「信じられませんか?」と冷静に問い返された。なんとも手慣れた口調だ。「あれを見ても?」
 男の指差す先を見ると、葬儀が催されている。
 葬儀が自分のために行われているのを確認するのに時間はさほど必要なかった。壇上にある自分の写真。その写真の顔は、涙に暮れる参列者の中、ひとり間の抜けた笑顔をしている。
 ああ、そうだった。死んだのだ。あまりに自明だったものを失い、それ故に自分の慣れ親しんだ習慣が拭えない。つい生きているようなつもりになってしまう。
「さて、そろそろ行きますか」と男が言い、なんだか当たり前のことのような調子で言われても、どこに行くのかさっぱりわからない。
「行くって、どこに?」と尋ねると、男は鼻で笑う。「あんたは誰だ?」
「わたしは水先案内人。ここは生者の世界、死者には死者の世界があるのです」
「ということは、その死者の世界に行くってことか」
「その通りです」男は満足そうに頷いた。
 その間にも、葬儀は粛々と進み、啜り泣く声が途切れ途切れ聞こえる。そのすすり泣きに後ろ髪引かれて、男に促されても第一歩が踏み出せない。
「どうしました?」
「もう少し、待ってもらえないか?」
「何故?」
「大切な人達に、別れの挨拶をしたいんだ」
「あなたのこと、誰も見えませんよ。それでも?」
「ああ」
「どうしても?」
「頼む」
 男はため息を吐いた。「好きにしてください。ただ、どうなっても知りませんよ」
 葬儀場の中へ歩みを進める。会社の上司や同僚、部下達が参列していてくれる。さらに進み、最前列に行くと妻と息子がいた。
 誰もかれもが俯き、僧侶の上げる読経だけが淡々と続けられる。
 と、そこで不可思議なことが起こった。
「邪魔者がいなくなったな。これで昇進できるぞ」
「後任の人事はどうするかな」
「嫌な上司がいなくなってせいせいするよ。次はもっと良い上司だといいな。いや、ひょっとしたら俺が昇進しちゃうかな?」
 静まり返っていた葬儀場が一瞬にして言葉で溢れたのだ。しかし、声の主を探しても、先ほどと同様、みな俯き、悲しみに暮れている。暮れているように見える。一体何が起こったんだ、狼狽し、後退りすると、そこに男が立っていた。
「これはどういうことだ?」
「死者は生者よりも他者との距離が近いんですよ。本来あるはずの垣根が消えるのです。だから、声を発しなくとも、思っていることが聞けるのです」
「じゃあ、これが会社の連中が思っていることなのか?」
「そうです」
「そんな、ちっとも悲しんでいないじゃないか。みんな昇進だとか、人事のことしか考えちゃいない。人が一人死んだんだぞ」
「そうですね」と男は肩をすくめた。そうだ、妻と息子なら、最前列に行き、二人の思いに耳を澄ませる。
「どうやって生活していこうかしら」
「保険、どうなってたっけ?」
「経済的に苦しくなっちゃうかな。大学行って、合コンとかしたいんだけど」
 愕然とした。自分のこれまではなんだったのか。築いたものはなんだったのか。
「全てあなたが築いてきたもののせいですよ」と、男が言う。
「どういうことだ」と詰め寄ると「みんなあなたの担っていた役割を補充することを考えているのです」と表情一つ変えずに答えた。
「役割?」
「夫、父、上司、部下、同僚、その他もろもろ。あなたはそれに従順に従い、また周りにいる人間をそうやって扱ってきた。そして、あなたが死んだ今、人々の関心事は欠けてしまったあなたの役割をどうやって埋めるかだけなのです」
「誰も、死んだことになんて関心がないってことか?」
「自業自得ですよ。さあ、行きましょうか。大丈夫、あなたがいなくても、みんなどうにか役割を埋めてやっていきます。未練なんて、もう無いでしょう?」


No.520


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