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そして、歴史の歯車が回り始める

 結果的にみると、その彼が放った一発の銃弾、その銃声が、歴史を大きく動かすこととなったわけだが、その時、それの放たれた瞬間には、よもやそんなことになるとは誰にもわからなかった。その張本人である彼自身にも。
 大抵の物事はそんなものだろう。その瞬間は些細なこととして片付けられてしまう。しかし、後で振り返ると、それが大きな、とはいえ、実際些細な火花であることも多いのだろうが、その火花が全ての発端、例えばエンジンのピストンの中の最初の火花となり、それがエンジンに動力を与え、それが回り始め、ついには暴走させることすらあり得るのだ。なにを暴走させるのか。歴史である。
 彼の所属する部隊がその河岸にたどり着いたのはもう夕方になってのことだった。山間の村に生まれ育った彼にとって、大陸の、一直線の地平線に沈む夕日は見ものであったはずだが、彼はそれを見てなどいなかった。行軍は順調とはいかなかった。汽車のトラブルもあったし、他にも細かい問題が幾つもあった。誰もがイラつき、誰もがそれをぶつけられる相手にぶつけていた。
 彼らはその土地に好意的に迎えられていなかった。彼らは侵略者であると見なされていたのだ。事実、他国に赴き、そうして行軍することは侵略的ではあろう。もちろん、彼らの言い分としては、その土地の治安維持を買って出るということだが、少なくともそこに住まう市井の人々からすれば、銃を担いで行軍する他国の軍隊は心地いものではあるまい。
 表向き、彼らはそこで軍事教練をするのだった。末端にいる彼らに繋がるその樹系図を遡ったその頂上付近では、どう考えられていたのかはわからない。その後の成り行きを見るに、おそらくそれは侵略であったのだろうが、そう断ずることもまた歴史の一部に過ぎないとも言えるのかもしれない。
 日の完全に暮れてしまう前に野営の準備をしてしまおうと、彼らは慌ただしく働いていた。そこに辿り着くまでの疲労で、身体は悲鳴を上げていた。
 彼は優秀な兵隊ではなかった。他の大抵の兵隊と同じように、彼はどこにでもいるごくありきたりの勤め人でしかなかった。頭を下げ、帳簿をつけ、仕事帰りには同僚と赤ちょうちんで一杯やるような、どこにでもいる勤め人だ。それが徴兵され、そこにいるのだ。その時代、成年男子はみな徴兵され、軍隊に入ることになっていた。誰もが国のため、という題目を口にはしていたし、彼自身もそう思っていたのだが、彼の身体は正直だった。軍靴にすぐに靴擦れができたし、軍服は着心地が悪かった。背嚢で背中が痛くなった。働きも悪く、いつも上官に殴られていた。
 野営の準備が調い、まずい夕食を済ませると、彼は夜警にあたることになった。月が出ていた。その月あかりで、対岸に、その土地の軍隊の姿が見えた。彼と、彼の所属する隊が不穏な動きをしないか見張っているのだ。無理もないことだろう。
 それは、彼自身の記憶としてもさだかではない。というのも、行軍の疲労で、彼はうとうとしていたからだ。おそらく、眠り込んだのだろう。いや、そうに違いない。夢を見ていた気がする。いや、それすらも夢なのかもしれない。彼の手の中にある、熱を持った銃身だけが現実だった。銃身のその中を弾丸が通過した後の熱、火薬の臭い。どうやら引き金にかかった寝ぼけた彼の指が、なんの拍子かそれを引いたらしかった。しかしながら、彼はその銃声を聞いていなかった。彼が確かに聞いたと言えるのは、銃声の残響だけだった。それはあたりに木霊し、なかなか消えなかった。
 その木霊で、彼は目を覚ました。懲罰のことが頭をよぎった。命令に無い時に発砲するのは懲罰の対象だ。また殴られるのかもしれない。周りに人が集まって来た。彼は言い訳を考えた。
 もちろん、その銃声を対岸にいる軍隊も聞いていた。彼らにとって、その銃声は挑発に違いなかった。それは自分たちに向けられたものだった。その中の早とちりが、撃ち返さなければと引き金を引いた。そうなれば、応戦するより他は無い。あとは雪崩のように銃撃戦となった。何人かの人死にが出た。双方とも相手方に責任があると主張し、責任をとれと迫った。もともとギクシャクしていた関係はさらに悪化し、ついには全面的な戦争となった。
 それは大きな戦争となり、何百万という人が死んだ。
 彼がその死んだ人の中に含まれるのかどうかはわからない。少なくとも、彼は歴史には登場しないからだ。

No.346

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