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昨日今日明日

 ある日、男は自分が昨日にいて今日にいないことに気付いた。つまり、その「ある日」は本来今日であるべきなのに昨日だったのだ。
「この光景は」と、男は今日であるべき昨日に思った。「見たことがあるぞ」
 それもそのはず。それは昨日であったので、男はその一日を経験済みだったのだ。昨日あったことであれば、男は全て知っている。朝食の時に飲もうと思った牛乳が賞味期限切れだったこと、遅刻しそうで赤信号を渡ろうとしたらトラックに轢かれそうになり怒鳴られたこと、ああ、そうだ、こんなことがあった、そうそう、これもあった。次々と男は昨日あったことを確認していく。前もって知っているはずなのに、こんなことが起こるぞ、とはならない。そうできるのならば、先読みして危機を回避したり、何か一儲けもできそうなものだが、男は常に物事の一歩あとに「そういえばこんなことがあったな」、ということを思い出すだけだった。なにしろ、その昨日というのは、男にとってこれと言って特別な一日ではなく、ありきたりのごく平凡な、なんの特徴も無い一日だったのだ。それは男の記憶に留まらないようなごくごく平凡なものだったのだから。
 男は戸惑った。今日であるべきなのに昨日なのだ。これは尋常ではない。しかしながら、どうという手立てが打てるでもなし、とりあえず一日様子を見てみることにした。もしかしたら、一晩寝れば今日に戻っているかもしれない。
 翌朝目覚めた男はその瞬間に気付いた。自分が今日でなく昨日にいることに。昨日の次の日は今日であるはずだか、今日は今日で一日明日へ進むので、昨日にいる男が一日進んでも、それは昨日のままなのだ。男が今日に戻るためには、男が一日飛ばし、つまり、昨日から明日へと行こうとしなければならないのだが、日は一日ずつしか先へは進まない。今日の次が明後日ではないように、昨日から明日へと進むことはできないのだ。
 というわけで、男は昨日から先へ進めなくなったのだった。男にとっての一日は常に昨日であり、そこで起こることを男は知っているのだが、それは男が思い出すという形でしか気付かれなかった。男の日々にはこれといった特徴的なものが一切なかったのだ。昨日と今日と明日は似たような目鼻立ちをした、まるで兄弟のようなものでしかなく、目を凝らして見なければとてもではないが見分けようがなかった。それは、男のこれまでの人生でもそうだったし、これから、つまり昨日を生きる人生となっても変わらない。
 もしかすると、男にとっては、その一日が昨日でも、今日でも、明日であっても、なんら変わるところがないのかもしれない。


No.642

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