見出し画像

レコードは回る

 そのレコードの、その曲が終わったら、部屋を出ていこうと男は思った。そして、もう二度とそこには戻るまいと、そう思った。女を愛していなかったからだ。かつては、女を愛していたかもしれない。最初から、愛していなかったのかもしれない。あるいは、愛しているのだと勘違いしていたのかもしれない。とにかく、潮時だった。
 女は、部屋の隅で壁にもたれかかりながら、男を見ている。見ていないのかもしれない。男は女が自分を見ていると思ったが、本当は女は男を見ていないのかもしれない。女の目は女の目であり、それは男の目ではないから、男には女の目のことはわからない。それは、女の本心にしたところでそうだ。女が男を愛しているというのは、男の勘違いなのかもしれない。そんなものはとうの昔に消え失せたか、最初から無かったのかもしれない。
 出ていこうとすれば、女は引き留めるだろうか。男はそんなことを思った。どちらでも良かった。引き留めてもらいたかった。もしも引き留められたら、そのわずらわしさに力いっぱい振り払ってしまうかもしれない。
 針がレコードに落とされる。ジ、ジ、と、軽いノイズ。食器のぶつかる音、衣擦れ、咳払い。ピアノが旋律を奏で始める。ドラムスがリズムを刻む。お互いに目くばせし合い、呼吸を合わせているのが音からわかる。そして、ベースがそこに入ってくる。スピーカーから溢れてくるのは音楽であり、濃密な夜の空気。ジャズ。
 のちに、ベーシストを交通事故で失うことになるトリオの演奏だ。彼らの、円熟期の演奏。この録音からほどなくして、ベーシストは車にはねられ、死んでしまう。そのことを、その時の彼らは知らない。もしかしたら、その時間が、三人で音を絡めあう時間が、永遠に続くものとすら思っていたかもしれない。
 ベーシストは軽快に、踊るようにベースを弾いている。うねるようなグルーブが作り出される。繊細なメロディを奏でるピアノ、正確にリズムを刻むドラムス、それは三人の対話だ。
 生きているベーシストの指が、弦を弾いている。今はもう死んでしまった男。その男の、生きている指。やがて来る彼の唐突な脱退。永遠に失われた三人の奇跡。
 女が男に歩み寄る。男は女を見る。女を見たのはいつ以来だったか、男は考えた。まるではじめて見る女の顔のように、男には思えた。あるいは、それは女にしたところでそうかもしれない。そして、しばらくそのまま見つめ合っていた。
「愛しているわ」と女は言った。
「ああ」と男は答えた。それだけしか言わなかった。
 ピアノとドラムスは、ベースがほどなくして死んでしまうことを知らない。ベースが唐突に消えてしまうことを。鍵盤で指が踊り、スティックがビートを刻む。知っていたら、そんな演奏ができただろうか。それを知ることなどできないのだから、そんな疑問自体がナンセンスだ。そして、それだからこそ、その瞬間は奇跡なのだ。あるいは、どの瞬間も奇跡なのだ。
 曲がもうじき終わる。
 男は女に口づけをした。


No.477


兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで

201話から300話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?