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邪悪な龍の子ども

 子どもの龍を拾った。たぶん、子どもなのだと思う。ひざに乗せられるくらいの大きさだし、目は大きくてつぶらで、全体的に丸っこくて愛らしい。龍と言えば見上げるくらい大きなものなのだと思うから、たぶんこれは子どもだ。もちろん、それがわたしの龍を見た最初だから、正確なところはわからない。その大きさで大人だという種類の龍の可能性だってある。
 雨の降る夜だった。わたしはアルバイト帰りで、クタクタで、コンビニでお弁当を買って、傘をさして、自分はこの世界で何番目に不幸かを想像しながら歩いていた。冷たい雨だった。そうして歩いていると「にゃーにゃー」と鳴く声が聞こえたのだ。捨て猫だろう、とわたしは思った。こんな雨の日に捨てられている猫なんて、世界不幸ランキングの上位に滑り込むに違いない。わたしなんかじゃきっと歯が立たない。わたしはその鳴き声の聞こえる方へ行った。電柱の下、ダンボールの中にそれはいた。猫じゃなかった。龍だった。
「戻して来なよ」と、わたしが抱えた龍の子どもを見るなり兄は言った。その頃、まだわたしの上京したての頃、わたしは兄と一緒に暮らしていた。母はわたしが上京するのに最後まで反対したし、びた一文援助しないとの言葉通り一切の金銭的ななにかをわたしに渡さなかった。それに関してはむしろすがすがしい思いがした。兄の大学合格に始まる一連の状況騒動と比べると雲泥の差だ。色めき立ち、家族総出で新居を探し、涙涙で兄を見送る感動のフィナーレ。よろしい。確かに優秀な兄に比べ、わたしは残念だ。認めよう。それにしても、格差がひどい。
 おそらく、わたしは母に好かれていなかった。口ばかり達者で、頑固で、生意気。それはわたしの性質だけれど、母のそれでもある。つまるところ、わたしたちは相性が悪すぎた。そして、無理やり上京する条件が兄との同居だった。
「それ、邪悪な龍だ」と、兄は本を読みながら言った。なんたらうんたら概論、みたいなタイトルの本。
「なんでわかるの?」
 兄はこちらを向き、龍の子どもをじっと見つめた。「邪悪な目をしてる」
「そうかな?」わたしは龍の子どもを手で自分の目の前に掲げ、まじまじと見てみる。暗がりでもかわいらしいと思ったけど、明るい部屋では一層愛おしく見えた。「かわいいじゃん」
「龍は邪悪だ」と、兄は言う。「かわいいかもしれないけど、邪悪なものは邪悪だ。心を食われるぞ」
「心を食べられると」と、わたしは言った。「どうなるの?」
「心が無くなる」兄はそう言った。「お前も邪悪になる」
「やだ」わたしは言う。
「なにが?」
「戻したくない」
「戻せ」
「やだ。絶対にやだ」
「戻して来いよ。追い出すぞ」
「あんなとこにいたら死んじゃうよ。戻さない」
 そうして、わたしは追い出された。いや、わたしと龍の子どもだ。わたしの荷物なんてほとんどなくて、カバンひとつに収まっちゃうくらい。せいせいした。いつか出て行こうと思っていて、そのためにアルバイトしてお金を貯めていたのだ。もちろん、時期尚早ではあるけれど。わたしの世界不幸ランキングは何位くらいだったろう。
 行く当ては無かった。学校では友達はできなかったし、アルバイト先でもちょっと浮いた存在だった。頼る相手がいない。考えていて、ふと浮かんだのが、アルバイト先で知り合ったボーイフレンドだった。いや、ボーイフレンドじゃない。彼は三日でそのアルバイトをクビになった。レジのお金に手をつけたとかで。一日目、はじめまして、二日目、休憩室でキスをして、三日目、彼はそこをクビになった。
「なに、それ?」
「龍、の子ども?」
「なんで疑問形?」
「さあ、わかんない」
 彼の部屋の住所だけは知っていた。おんぼろアパート。建っているのが奇跡、神の存在を信じたくなる。彼はなにも言わないでわたしたちを部屋に入れてくれた。タバコ臭い部屋、天井も壁も真っ黄色。ゴミだらけで、ゴキブリがカサカサ動いている音がする。
「邪悪な龍だって」と、わたしは言った。
「ふうん」と、彼は言った。タバコの煙を吐きながら。「いいね」
「そう?」
「うん」そして、煙草をもみ消すと、わたしの方へ顔を突き出した。わたしは顔をそむける。彼が笑う。わたしも笑う。
「嫌い?」
「うん」わたしは口を真一文字に閉じながら頷く。息を止める。「大嫌い」
 彼は笑った。「いいね」
「たぶん」と、わたしは言った。「変なことしたら、この子があなたを食べちゃうよ」
「それは怖い」と、彼は言った。
 その夜、わたしは邪悪な龍の子どもを胸に抱き、彼の汚い毛布にくるまって眠った。夜明けが来ないような夜だった。
 夢を見た。邪悪な龍の子どもがちゃんと育って、邪悪な大人の龍になり、この世界の人間をひとり残らず平らげる夢だ。世界不幸ランキングは壊滅する。ちょっと残念。
 おやすみ、わたしの邪悪な心、そこですくすくと育っていきなさい。


No.494


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