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ふぉげみの

「泣き方を忘れてしまったみたいなんだ」と彼は言った。「ここのところ、全然泣いてない」
「それは泣くようなことが無いからでしょう?」
「昔なら泣いていた映画を見ても泣けないんだ」と彼は頬杖を突きながら言った。「必ず泣いてた」
「なんて映画?」彼の答えたタイトルは聞いたことのないものだった。
「マイナーな映画だからね」と彼は肩をすくめた。「昔、ちょっと流行ったじゃない?ミニシアター系みたいな映画」
「ミーハーだもんね」
 彼は肩をすくめた。「人と違うものを探す、ってこと自体が世の中の大多数と同じなんて皮肉だね。涙も出ない」
「歳を取って、感性が変わってきたんじゃない。いろんな経験もしただろうし、環境だって変わった」
「昔は恋人だった君が、妻になってる」と彼は言った。
「そういうこと」
「なんだか君と出会ったのがすごく遠い昔のように感じる」と彼は言った。「はるか彼方、宇宙の果てで」
「なにそれ?」
「ふたりは出会いました。宇宙の果てで。ぼくも、君も、しがない大学生だった。貧乏で、いつもお金が無くて、図書館かファミレスでばかりデートしてた。ファミレスも、一番安いメニューを分け合って、ドリンクバーでずっと粘って、深夜で客なんて全然いなかったし、店員もあくび交じりで仕事をしてたくらいだから、注意はされなかったけど、きっとぼくらのことを呆れてみてただろうね。とにかく、一緒にいるだけでよかった。何かを話してたんだろうけど、何を話してたかなんて何も覚えてない。ただ、話してるってだけでよかったから。内容なんてちっとも頭に入ってなんかいなかった。もしかしたら、君は怒るかもしれないけど」彼はそう言うと、ひとつ息をついた。遠い目をして、遠い過去を眺めるような目つきになった。はるか彼方、銀河系の果て。宇宙の果てだっけ?
「ふふふ」
「確かにあれからいろいろあったよ。ケンカもしたし、別れ話が出たことも一度や二度じゃない。それぞれにそれぞれのタフな出来事もいろいろあった。お互いに泣き言を吐くことだって数知れない。ぼくも、君も、確かにすごくタフになった。感性は変わったよ。とてもタフになったとも思うし、でも同時に打たれ弱くもなっている気もする。よくわかんないな。あの頃、まだ付き合いたてのぼくらが、いまのぼくらを見たらきっととても驚くに違いないと、ぼくは思う。たまに、自分がここでこうしていることがすごく不思議になることがあるんだ。どうしてここにいるんだろうって。仕事の地位だとか、君と結婚してることとか、車を持っていて、それを運転していることだとか。もちろん、どうやってそれらを手に入れたのかはわかってる。契約書にサインする、ローンを組む、誓いを立てる、タフな仕事をこなす。でも、どうしてそうなったのかと尋ねられたら、きっと答えられない。もしかしたら、運命なんて言葉を口走るかもしれない」
「いいんじゃない?」
 彼は肩をすくめた。「若いぼくがそれを聞いたら、きっと苦虫を噛み潰したような顔をするだろうね」
「歳を取った、そういうことだよ」
「歳を取って、それなりにタフになり、脆くもなり、いつしか泣き方を忘れた」
「それは、いまが幸せだからなんじゃない?」
「そうなんだろうか」
 ちがう、と私は思う。けれど、口に出さない。彼は泣き方を忘れたのではなくて、彼の涙は枯れ果ててしまったのだ。私は彼の間違いをたださない。
 私が死んだとき、彼は泣いた。泣いて、泣いて、とにかく泣いて、そして彼の涙は枯れ果てた。比喩表現ではなく。井戸が枯れるみたいに。そして、彼の涙が止まるとともに、彼は私の存在に気付いた。正確に言えば、彼が私の存在を作り出したのかもしれないけど。彼は私が死んだことを忘れて、私が存在することにしたのだ。正直なところ、私はそのことが嬉しかった。私が死ぬときに怖かったのは、忘れ去られてしまうことだった。「忘れない」と口では言っていても、人は日々の生活の中で、その故人の存在を少しずつ忘れていく。誰あろう私がそうだった。大好きな祖母が死んだとき、絶対に、片時も祖母のことを忘れまいと思っていたのに、次第にそれは日常に埋没していった。私はそれが怖かった。
 彼は忘れなかった。私が存在することにしたのだ。
 だから、私は彼に真実を話さない。話せば、きっとこの魔法は解けてしまうだろう。でも、話さなければならないとも思う。死んだ人間がいつまでも居座り続けるなんて、どう考えても不自然だから。
「もしも私が死んだら」と、私は恐る恐る尋ねる。「あなた、きっと泣くんじゃない?」
「それは」と、彼は少し考えながら答える。「そうだろうね」と言い「そう答えなきゃ、怒るだろ?」と言って、無邪気に笑う。私はホッと胸を撫で下ろす。彼は思い出さなかった。私が死んだことを。
「君が死んだら、ぼくはきっと泣いて、泣いて、涙が枯れ果てるまで泣いて、それで君が死んだことを忘れたことにすると思う」彼はそう言うと、ニヤリと笑った。「この答えで満足かな?」悪戯っぽい笑み。彼のよくする表情。その顔を、私は手放したくない。だから、私は黙り込む。沈黙。
「わかってる」と、彼は言う。俯いて、ポツリと。「わかってるんだ」
「なにが?」
「君は死んじゃって、もういないってこと」そして、彼は私を見つめる。存在しない私を見つめる。「ごめん」
「どうして謝るの?」
「君には心配ばかりかけて、君が死んだあとまで、心配をかけてる」
 私は首を横に振る。存在しない首を。
「わすれないで、わたしのこと」と私は言う。
「忘れないよ」と、ぼくは言って、涙を流した。

No.352

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