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生きているのと、生きていないのと

 弟の病気が見つかったとき、それはもう手の施しようのないほどに病状が進んでしまっていた。それは弟の命を奪うだろう。小さいころから我慢強かった弟だけれど、そんなことになるならすぐに音を上げてほしかった。
 浮かんでくるのは「まだ若いのに」とか、「働き盛りなのに」という言葉。実際にはそんな言葉は誰にも投げつけられなかったのかもしれないけれど、弟の病気を知った人たちの醸し出す雰囲気はおおむねそんな感じだった。もちろん、彼らには感謝している。わたしの心情を慮って、変に慰めたり、同情しないでくれた。そういう周囲の人たちには感謝しかない。ただ、事実に打ちのめされたわたしには、そんな猜疑心しかなかったのだ。きっとみんなそう言って憐れんでいるのだ。「まだ若いのに、働き盛りなのに、死んじゃう」
 それは事実だ。弟は若く、働き盛りなのに、死ぬ。
 仕事の調子が良かったのが、弟に無理をさせたのかもしれない。編集者として働いていた弟のその手で作った本は、なかなか評判がいいということだった。小さいころから本が好きだった弟。わたしたちはお互いの人形を持ち寄って、ふたりでお話を作ったものだった。わたしの女の子のお人形と、弟のヒーローや怪獣の人形。そんな座組でどんな物語が紡がれたのか、ちっとも覚えていない。てっきり、わたしは弟は小説家かなにかになるものだと思い込んでいた。なにか、物語を作るような、そんな仕事。実際、高校生の頃に弟の書いた小説を盗み見たこともある。お世辞にも上手とは言えなかったそれは、机の引き出しの奥深くに隠されていた。そんなものを見つけて、盗み見るわたしもわたしだけど。
 もしかしたら、それは弟のひみつの夢だったのかもしれない。とはいえ、編集者になって本を作るのだって、夢を叶えたと言ってもいいのではないか。弟は幸せだった。少なくとも、幸せなときがあった。
 娘が後部座席でお気に入りのぬいぐるみたちを使って遊んでいる。小声でなにか呟きながら、ぬいぐるみたちを動かしている。血は争えないということだろうか。そんなことを思いながら、わたしは車を走らせる。海沿いの、見晴らしのいい道。弟の病室からは、海が見渡せた。よく晴れた日で、風の強い日。あと何回ここを通るのだろう。そんなことが頭をよぎった。
 弟はいつも、病室に入る私たちを微笑みで出迎えてくれた。やせ細った弟の顔。わたしは笑顔を振り絞る。
「あれは?」
「トンビだね」
「おっきい」
「そうだね」
 わたしたちが訪れると、弟は決まって外に出たがった。弟を車いすに乗せ、海沿いの遊歩道を歩く。わたしもその方が気が楽だった。病室で、面と向かっていても、なにを話せばいいのかわからないだろう。気づまりな沈黙が続きそうな気がする。わたしが車いすを押し、娘は弟のすぐ脇を歩きながら、他愛もないことを話している。娘はまったく気兼ねするような様子を見せない。だからこそ、わたしはいつも娘を連れてきているのかもしれない。弟もそれが楽しそうだ。
「あれはなんだろう?」娘が少し先を指さす。
「あれは、紙コップかな?誰かが捨てた」と、弟が答える。
 紙コップが、風でコロコロと転がっている。
「生き物かと思った。動いてるから」と、娘が言った。「生きてない?」
「そうだね」と、弟が言った。「あれは生きてないよ」
「生きてるのと、生きてないのとの違いって、なに?」
 弟は微笑み、「なんだろうね」と言った。
 娘が砂浜に駆けて行き、わたしは弟とふたりきりになった。娘が、波打ち際で波に追われている。
「恨みがないわけじゃないんだ」と、弟は不意に言った。
「え?」
「恨んじゃうんだよ。この世界全部」
「うん」
「いい天気だね」
「うん」
 弟は息を吸った。耳元で風が鳴る。
「長生きしてね」
「うん」と、わたしは答えた。
 それからしばらくして、弟は死んだ。


No.560


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