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憎悪の憎悪

 男は気付いたのだが、その気付いたのが自分の記憶の無いことであってみれば、はたして男はどの時点からその男としてあったのかがややこしくなるのだが、男は便宜的に気付いた瞬間から自分が自分となったと納得できる程度に割り切った性格だった。その性格も男が自分の記憶が失われていることに気付いた瞬間に付与された、あるいは選び取ったものかもしれないが。
 その事実、つまり記憶喪失であるが、それに気付いた男は、頭の中で九九を暗唱してみた。できる。歴代の大統領を挙げてみた。所々抜け落ちがあるのはそもそも男がそれを知らなかったかもしれない。その他にも、その日が何月何日かとか、諸々を頭の中で思い浮かべてみると、たいていのことは不自由なくできる。一般的な知識は失われていない。
 男の覚えていないのは、男がいかにしてかくあるか、ということだ。アルバムの写真が全て失われてしまったように、真っ白。新雪の上につけた足跡がその後の吹雪で消し去られたように、白い航跡が波でかき消されるように、男はそれまでどのようにそこまで歩んできたのかを失っていた。男がなぜかくあるかもわからない。それは永遠にわからないだろう。別にこの男に限ったことではない。
 全てを失ったように思えた男だが、一つだけ、ただの一つだけ、残っているものがあった。男は自分のうちにそれを見出したとき、恐怖に身震いした。男のうちには、憎悪があったのだ。どす黒い憎悪、今すぐにも人を殺しかねないくらいの強烈なものだった。それがどこへ向かうものなのか、男にはわからなかった。なにせ男は全ての記憶を失ってしるのだ。男にわかるのは、自分が激しい憎悪を抱えているということだけだった。
 とはいえ、男にはとりあえず常識というか、日常生活に困らない程度の知識はあり、かつまた男が周囲に好感をもたれるような、朗らかで寛大な人間であったこともあり、支えてくれる人たちの力添えで、どうにか生活はしていけるようになった。仕事を持ち、狭いながらも住む場所を見付け、さほど普通の人と変わらない生活を送ることができるようになった。仕事を覚えるのも早いし、人好きする性格なのですぐに打ち解け、友人もできた。ほどなく恋人もできた。
 恋人には、自分の記憶の無いことを打ち明けた。隠し事をしたくなかった、と言ったが、本当は過去のことを尋ねられて答えられないのを見られ、不審がられるのが嫌なだけだった。
「早く記憶が」と恋人は男の髪を撫でながら言った。「戻るといいね」
 しかし、男は自分の中にある憎悪についてだけは黙っていた。それは自分でも認めたくないものなのだ。それも含めて自分を受け入れてもらおうとは思えなかった。できれば否定したかったのだ。だから、誰にも言わない。それでも、憎悪は間違いなく、心臓があるのと同じくらい確実にそこにあった。
 男はその憎悪に日々苦しめられた。仕事をしていても、友人と談笑していても、恋人と寄り添っていても、男のうちには確実に憎悪が存在し、主張しないからこそそれがそこにあることを認識せざるを得なかった。できることなら、と男は思った。胸を切り開いてこの憎悪を取り除いてしまいたい。
 ある日、老人が男を訪ねた。男はその老人に見覚えがなかったが、老人は男を知っているらしい様子であった。男は直観した。これは自分の記憶の無くなる以前に関わりのあった人間に違いない。
「久しぶりだな」老人は男に言った。
「申し訳ないのですが」と男は言った。「ぼくには以前の記憶がないんです」
「なんと」と男は言った。「わたしを忘れたのかね?」
「すいません」男は頭を下げた。「もしあなたに御恩があるようなら、必ず返しますから」
 老人は声を上げて笑った。男はそれを不思議そうな顔で見ていた。
「なぜ笑うんです?」
「恩など無いよ。お前はわたしを憎んでいたはずなのだが、どうやらそれも忘れてしまったらしい。それならもういいんだ」
 男は老人の顔をまじまじと見た。しかし、いっこうにその顔が何者なのかが思い出せない。老人の言葉を信じるならば、男の憎悪の原因はこの老人であるということになるが、それでも思い出せない。男の中の憎悪がなにがしかの反応を示すかと思ったが、それはぴくりとも動かない。老人が男に対してした仕打ちを聞いても、憎悪は憎悪としてあるだけだった。
「どうだね?」と老人は男に尋ねた。「思い出したかね?」
 男は首を横に振った。
「そうか」と老人は言った。「ならもういいんだ」
「よくない」男は俯き加減に言った。「待て」
「ふむ」老人は顎をさすった。「しかし、もう用はなかろう」
「ぼくはあんたを憎んでいる」
「記憶が戻ったかね?」
「いや」
「じゃあ、わたしとお前はなんの関わりもなかったも同然だ」
「ぼくは、この憎悪に苦しめられてきた。この憎悪を植えつけたあんたが憎い」
 そして、男は老人を殺した。


No.483


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