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ぬるま湯

 昔、子どもの頃は風呂に入るのが嫌いだったけれど、最近はついつい長風呂をしてしまうようになった。そう言えば、爪を切るのも嫌いだったし、ニンジンも嫌いだったが、いつの間にか嗜好が変わって、今ではどちらも好きである。爪が伸びたままだと気持ちが悪いし、ニンジンはその味の深みがわかった。昔は爪を切ったあとの感覚が変わってしまうのが嫌だったし、ニンジンの歯ごたえが苦手だった。不思議なものだ。あんなに嫌がっていたことを進んでするようになるとは。人間とはわからないものである。まあ、そういうものが人間なのかもしれないが。
 ぬるま湯でバスタブを満たし、そこに長々と浸かる。家にいる時間はほとんどすべてを浴室で過ごしている。食事はもちろん、読書もするし、時折そこで眠る。いつか溺れてしまうのではないかと不安だが、どうにもやめられない。本当に必要で急を要するような用でもない限り、浴室を出ない。小用くらいなら浴室で足してしまう。勢い、他の、普通の居室は雑然と散らかりはじめ、浴室ばかりがきちんと整理整頓されるようになった。人間目につかないものには無頓着になるものである。念入りにバスタブを磨く。光輝くまで、念入りに。
 外に居てもそわそわしてしまう。外出先など、もう早く風呂に浸かりたくなって仕方がない。熱いお茶など出されると、たまらない。ああ、こうした湯に早く浸かりたい、と何も手につかず、上の空になってしまう。
「あの、どうかしましたか?」お茶を差し出してくれた人は不審そうに尋ねる。まさか、湯に浸かることを想像して恍惚としていたとは答えられまい。
「いえ、大丈夫です」と、できるだけ冷静を装って答える。もしかしたら、その方が不信感を募らせることになるかもしれないが。
 周りの人間には、そんな自分の性向については一言も漏らしたことがないので、こいつはどうしたのだろうと怪訝な顔をされる。まさか、茶碗の茶を見て、早く湯に浸かりたいと思っているなどとは夢にも思うまい。その当の本人だって驚いているのだ。
 やむにやまれぬ用が済んでしまえば、そそくさと帰宅するわけだから、まあ友人らしい友人も皆無だ。もし友人がいたとして、彼なり彼女なりが我が家に訪ねて来としても、家主は浴室にいて出てこないということになるだろうから、じきに友人関係は解消されることになるに違いない。それなら、最初から別に友人など必要ないのだ。バスタブに張ったぬるま湯さえあれば、他には何もいらない。
 浴室で過ごす内で、格別なのは喫煙だ。ぬるま湯に浸かり、タバコに火をつけて煙を吐き出す。煙の粒子が浴室の湿気に絡め取られ、それが中々消えずにそこに留まり続ける。狭い浴室にタバコの臭いが充満する。タバコ自体も湿気にやられていて、それが美味いかと言えばそんなことはないわけだが、こればかりはそれが良いのだ、としか言いようがない。まあ、一度やってみるといい。それでお気に召さなければやめればいいだけの話だ。
 こうしているうちに、ぬるま湯の中でなければ生きていけなくなるのではないかと一抹の不安が脳裏をよぎることがないわけではないが、まあ仕方あるまい。そうなればそうなるだけのことだ。
 ぬるま湯に浸かりきった思考とはこういうものなのだ。


No.605

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