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愛の証明

 身分証の提示を要求された時、彼が困惑したのは、彼がついうっかりそれを忘れて来てしまったからではない。彼がもともとそれを持っていなかったからだ。彼の両隣のゲートからは、ひっきりなしにそれを通過して行く者たちがいた。通過していく者はみな、彼の持たない身分証を持っていて、それを提示することですんなりとそこを通って行けていた。それは実に簡単なことのように思われた。身分証を提示する。通過する。実に簡単なことだ。実に、簡単なこと。それが彼にはできない。彼は焦燥にかられた。彼はそこに立ち尽くしているはずなのに、何かに追われているような感覚を持った。
「どうしました?」係りの女が彼に尋ねた。苛立ちを隠せない口調である。彼女の担当するその列だけ、滞り、長蛇の列になっている。「身分証を」機械的で、苛立った声である。
「それが」と、彼は恐る恐る囁くような声で言った。「身分証を持っていないのです」
「持っていない」係りの女はおうむ返しに言った。「なぜ?」
「なぜと言われましても」と彼は口ごもった。彼にしてみればなぜもなにもないのだ。持っていないものは持っていない、彼はそう答えたかったが、彼はそう居直るだけの勇気も持っていなかった。彼は小心である。
「身分証がなければ」と係りの女の声には苛立ちが隠せない。「ここを通すわけにはいきません」そう言って、彼の後ろに目をやった。彼は振り返った。彼は自分の背後にできた長い列を見た。彼がそこで流れを塞き止めてしまっているのだ。彼の後ろに並ぶ人々からは、一様に苛立ちが感じ取れた。しきりに腕時計に目をやる、眉間に皺を寄せる。
「どうにかなりませんか?」彼はすがるように言った。すがっていた、と言った方が正確かもしれない。
「規則ですから」係りの女はそう言った。「あなた、これまで身分証無しでどうやって暮らしてきたんです?」
「わたしは」と彼は言った。いくぶん意識的に胸を張りながら。「わたしはわたしでした。それだけで充分だったのです」
係りの女はため息をついた。「あなたはあなたかもしれないけれど」そして肩をすくめた。「ここではそれは通用しないのよ。あなたがどこの誰なのか、はっきりと証明できる何かがないと。あなたがあなたであることの、客観的な証明が」
「わたしはわたしなのに」彼は肩を落とした。
「あなたは誰なの?」
「わたしは『愛』です」彼は答えた。
「『愛』?」係りの女は鸚鵡返しに尋ねた。「隣人愛とか、情愛とか、愛情とか、そういった『愛』?」
「はい」彼は頷いた。
「信用できないわね」係りの女は言った。「あなたが本当の愛だという証明がなければ、ここは通せません。次の方」
 そして彼は列を外れ、引き返して行った。

No.552


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