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迷い犬とセレナーデ

「今からホントのことを言うから聞いていて」と彼女は言った。ぼくと彼女は何軒かはしごして、しこたま飲んだあとだった。明け方の街に人の気配はなかった。気だるく走るタクシーと、寝ぼけ眼のトラック、コンビニの灯りは妙な粘り気をはらんでいて、その空気を吸うと喉の奥に絡み付きそうだ。
「いいよ」とぼくは頷いた。
「この世界はクソったれ!」と彼女は朝焼けを待つ閑散とした通りに向かって叫んだ。 自転車に乗った新聞配達が驚いて振り返った。
「その通りだ!」とぼくは笑いながら答えた。まさにその通り。
「ねえ」と彼女はぼくに言った。「あたしと一緒に死なない?」
「一緒に生きるんじゃなくて?」 とぼくは尋ねた。
「おんなじようなもんよ」と彼女は言った。「死んだみたいにいきるのも、生きてるみたいに死ぬのも」
「生きてるみたいに生きることはできないのかい?」
「死んだみたいに生きるか、生きてるみたいに死ぬかしかできないわ」と彼女は言った。そして、ぼくの目をじっと見詰めた。ぼくは身動ぎ一つできなかった。ぼくは死にたくなかったからだ。それがたとえ生きているようなものであっても、ぼくにとって死は死だ。それは決定的な何かだ。もし、生が曖昧模糊としたものであったとしても、ぼくはそれにしがみつこうとした。頭の片隅でぼくは、彼女は冗談を言っているのだろうと高を括っていた。なにしろ、ひどく酔っ払っているのだ。そんな笑えない冗談の一つや二つが飛び出したとしてもおかしくはない。しかしながら、そうだとしたら、彼女のその真剣な面持ちは主演女優賞ものだ、とも思った。ぼくのアルコール漬けの脳は瞬時にこの厄介な計算をしてみせ、結果的に彼女の発言は本気である可能性があり、それに対して身構えるべきだという結論を出した。振り返ってみると、それは正解であったに違いない。なにしろ、ぼくは今も生きていて、こんな、無駄でしかないお喋りをしていられるのだから。つまるところ、生とは無駄であり、浪費に過ぎないのだ。意味や意義を孕むものは死である。しかし、それに意義を与えるのは無駄である生なのだけれど。
 彼女が死んだのをぼくが知ったのは新聞でだった。彼女は被害者だったのだけど、その新聞の書き方は自業自得だったとでもいうみたいな子調子だった。
 なにはともあれ、こうして彼女は永遠の生を得たのだった。この文明が滅びない限り、彼女の死を伝えた新聞は保存され、彼女の死という事態はそこで生き続けるだろう。
 ぼくにとってそれは、紙の上での出来事でしかなかった。だからぼくは彼女のために涙を流さなかったし、悼むこともしなかった。
 翌日ぼくは交番に行った。
「迷い犬を殺したのはぼくです」とぼくは警官に告げた。警官は訝し気な顔付きでぼくを見た。
「なんのことです?」と警官は言った。 若くて、たくましい警官だった。
「いえ」とぼくは首を横に振った。「いいんです」
 そして、その場を後にした。

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