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誰かの悪夢

 不運なことに、その男は悪夢の中に生まれた。純然たる悪夢。悪夢のような世界に、ではなく、悪夢だ。夢、それも悪い夢、しかもそれは、男の悪夢ではなく誰かの悪夢だった。
 もちろん、それは完全なる第三者の、あるいは超越的な視点、場合によっては神の視点とでも呼ばれる立場から見てこそわかる事実ではある。誰もが、自分の生まれ落ちた場所がどんな場所なのかを正確に把握などできない。なにしろそれ以外の場所を体験するなどということは不可能なのだ。場所、とは、その土地のことではない。生まれ育ち、生活する空間を指さない。世界全体についてだ。
 もしも、そこにいる人間がそこが悲惨だと理解できるほどに悲惨だったとしたら、そこはよほど悲惨だということだ。そこはどう?悲惨?
 話を戻そう。
 男は悪夢の中で生まれ、悪夢の中で育った。もちろん、男自身はそこが悪夢の中だとは夢にも思わなかっただろう。男にとってみれば、それは自分の馴染んだ世界、飲み水は数キロ先まで取りに行かなければならず、それを飲むと感染症で死ぬかもしれないような世界でも、そこで生まれ育てばそれが当たり前になる。男にとっては、その悪夢の中がそれなのだ。男はそこで人並みの挫折や喜びを経験した。夢を見たり、それに破れたり、恋をしたり、それが叶って有頂天になったりしながら大人になった。そして、女と出会った。もちろん女も不運なことに悪夢に生をうけた女だった。女もまた、その悪夢の中で人並みの苦労をし、歓喜の瞬間を経験し、大人になり、そして男に出会ったのだった。ふたりは恋に落ち、すれ違いなどもあったが愛し合った。悪夢の中で。
 ある夜、男はうなされて飛び起きた。辺りはまだ真っ暗で、デジタル時計は深夜の時刻を表示している。かたわらで寝ていた女も、それで起きてしまった。寝ぼけ眼をこすりながら、女は男に尋ねた。
「どうしたの?」
「ひどい夢を見たんだ」と、男は女に言った。
「どんな夢?」女はあくびをしながら尋ねた。しかし、男の様子を見て、目を覚ました。男は震えていた。「大丈夫?」そして、男の背中にそっと手をあてる。
「ぼくらが夢の中の住人で、その夢を見ている人間が目覚めてしまって、ぼくらが消えてしまうって夢」
「バカね」女は軽やかに笑った。軽やかに笑えば、そんな不安は簡単に吹き飛ばせるとでもいうかのように。「私たちはちゃんと存在するわ。私はここにいるでしょう」女は男の髪の毛をそっと撫でた。自分の手が、実在するのを証明するように。
「ああ、わかってるよ」男は女を抱き締めた。
 そんな夢を見た。悪い夢。あたしはうなされて飛び起きた。
「どうしたの?」あなたはあたしに尋ねる。寝間着が汗でぐっしょり濡れている。ひどく体が熱いような気もしたし、そのまま凍死するんじゃないかってくらい凍えてもいた。雨に打たれる棄てられた子犬みたいに、あたしは震えていた。
「大丈夫?」あなたは尋ねる。そして、あたしの背中にそっと手をあてる。
「ひどい夢を見た」あたしはそう言った。「恋人たちがいるんだけど、ふたりはあたしの夢の中の人間で、その夢を見ているあたしが目覚めて、夢も終わって、それでふたりも消えちゃうって夢」
「ただの夢さ」と、あなたは言う。「誰も消えてなんかいない」
「違う。たぶん、あたしが目覚めたことで、二人は消えてしまったんだと思う。ひどい夢だと思わない?」
「大丈夫」と、あなたは笑う。軽やかに。軽やかに笑えば、簡単に笑い飛ばせるかというように。「ねえ」
「なに?」
「ぼくらも誰かの夢の中の住人で、その誰かが目覚めたら消えてしまうって言ったら、どうする?」
 ひどい夢だね。


No.479


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