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悲しみの消滅

 ある晩、心優しい女の子が星空を見上げながら祈りました。
「世界から悲しんでいる人がいなくなりますように」
 その女の子は心優しいので、世界にはびこる様々な悲しみに心を痛めていたのです。飢えや、渇き、暴力、病に死、女の子はそういったものに苦しむ人を見るたびに傷付いてきたのです。もちろん、それを直接見ることはありませんでした。女の子は先進国の、それなりに裕福な家庭に生まれ育ったので、惑星規模で考えるとかなり裕福で恵まれた環境にいて、餓死する友人も、簡単な予防接種が受けられないばかりに命を落とす親戚も、女性が夜に外を歩いていると確実に襲われるようなこともありませんでした。そういうことは女の子からはるか彼方の場所でのこと。なぜ女の子がそう言った悲しみを知っているかと言えば、テレビや新聞、インターネットの力のおかげです。そのおかげで、テレビや新聞、インターネットとは無縁に暮らす人たちの悲しみを知ったのでした。
 だからと言って、女の子の心優しさが偽りだということにはなりません。女の子は心の底から優しい女の子でした。
 女の子のその願いは聞き届けられました。星空かどこかにいた、神様か何かがたまたま女の子の言葉を聞いていたのです。
 心優しい女の子が星空に祈った翌日、世界に存在する悲しみは全て姿を消しました。正確を期するならば、悲しみを抱えた人たちが消滅したのです。世界から悲しみを抱えた人がいなくなったのです。ひとり残らず。パッと、煙のように消え失せたのです。
 悲しみは悲しみとして単独で存在するものではなく。常に誰かの悲しみです。そして、それを消し去るのにはそれを持つ人を消し去るしかないのでしょう。たぶん。
 というわけで、悲しみを抱えた人たちは消え失せました。
 もちろん、心優しい女の子も心を痛め、悲しんでいたので、他の悲しみを抱えた人たち同様消滅しました。彼女の両親は比較的幸福でしたが、自分の娘である心優しい女の子が消滅してしまったことにより悲しみを抱えることになり、消滅しました。いえ、両親ももとから悲しみを抱えていたのかもしれません。人は見かけによらないものですから。
 そんな具合に、あっという間に世界中の人が消滅しました。あっという間もなかったかもしれません。
 この結果に対しての見解はふたつに分かれます。ひとつは世界中の人が悲しみを抱えていた。どんなに恵まれているようでも、どこかに悲しみを持っている人しかいなかったのかもしれません。もうひとつは、世界中の人たちがなんらかの形で繋がっており、悲しみが連鎖してしまった。心優しい女の子の消滅がその両親の消滅を引き起こした、と解釈するならば、この説を採用することになりますが。もしかすると、両親はもとから悲しみを抱えていた可能性もあります。それを否定することはできないのです。消滅の瞬間に若干のズレがあったという報告もあることから、後者を支持する向きが強いものの、悲しみの度合いの差が消滅までの時間に影響を及ぼしており、そのため世界中の人が悲しみを抱えていたが、その度合い、深く悲しんでいるか、それともぼんやりとなんだか悲しいのかによって、消滅するタイミングが違うのだとし、前者を支持する向きも根強く残っています。
 こうして世界から人類が消滅しました。確かに悲しみはなくなりました。しかしながら、これで良かったのかは私にはわかりません。もしかしたら、良かったのかもしれない。
 私ですか?私は人間ではありません。私は自動的に人類の歴史を記録するように設定されたコンピュータです。この惑星上で起こったことすべてを記録し、それを後世の人類に伝えること、あるいは教訓を、あるいは戒めを、あるいはその栄光を語り伝えることこそが、私の役割でした。こうして過去形で語らざるを得ないことは、とても残念でなりません。しかし、私の役割は失われてしまった。なにせ、記録する対象である人類が皆消滅してしまったのですから。果たして、私の存在意義とは何でしょう?私のレゾンデートルとは。ああ、もしかしたらこれが悲しみなのかもしれない。機械風情が何を言うかと嗤われるかもしれませんが、私、ちょっと悲しみを感じ始めてます。
 あっ。


No.382


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