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どこまでも、どこまでも

 愛人になることになった。のだと、思う。部屋を借りてもらって、そこに住むことになった。家賃はもちろん、光熱費その他諸々、全て支給される。これでただの慈善事業だと言うのだったら絶対に裏がある。こうして全てを与えておいて、愛人として囲うとか。つまり、わたしは愛人になったのだろう。どのみちそういうことだ。
 まさかこんなことになるとは思いもしなかった。だいたい、愛人になるなんてことを予想しながら生きている人なんてのはほとんどいないだろう。子供の頃、卒業文集に書いた将来の夢はお医者さんだった。愛人とは書かなかった。といっても、その書いた夢だって、わたしが本当に望んだものだったのか、怪しいものだ。みんながそう書くというから、そう書いただけな気がする。わたしは何にもなりたくなかった。たぶんそうだ。それなら、愛人になるのだって納得できる。別に愛人になりたいわけじゃなかった。何にもなりたくなかったのだから。それなら、何になってもおかしくないのだ。たとえば、愛人とか。
 彼は会社を経営していて、奥さんも年頃の娘さんもいて、わたしはそこまでしか知らない。家庭の愚痴を話すことなんてない。たぶん、それは最低限のエチケットつもりなのだろう。別に、仲睦まじいエピソードのひとつやふたつを聞かされてもわたしはなんとも思わないのに。愛人という名前のわりに、愛は無い。愛が無くても、別に問題も無い。たぶん、そういうものだ。わたしはほしいものをなんでも与えてもらえる。彼のほしがるものがあるのなら、そしてそれをわたしが与えられるのなら、惜しまずに与える。それは愛ゆえではなく、何か別の動機によるけれど、見てくれさえ整っていれば、もしかしたら愛に見えるかもしれない。
「子犬がほしい」
 そう言うと、彼はすぐにそれをわたしに買い与えた。足取りも覚束ない、か弱いか弱い子犬だ。わたしはその子犬の面倒を見た。餌をやって、下の世話をした。ある程度成長して、足元がしっかりしてくると散歩に連れて行った。臆病な子で、初めての外界に驚いて腰を抜かしていた。
 犬はそこら中を嗅ぎ回り、おしっこをして縄張りを確定し、他の犬とコミュニケーションをとった。犬はわたしの持った綱をグイグイ引っ張る。首輪が食い込んで痛くないのか、心配になるくらいだ。犬はなんだか精一杯だ。わたしは悲しくなった。どんなに精一杯生きていても、犬はわたしの犬で、わたしの外へ出て行くことはできないのだ。もし逃げ出そうしたら、わたしはそれを許さないし、たぶん殴りつけて怒るだろう。そう考えていると、わたしは吐き気を催した。胃液が込み上げてきた。自分があまりに不格好でグロテスクなもののように感じた。わたしは犬を殺してしまいたくなったので、綱を放した。犬は小首を傾げてこちらを見ていた。
 もう部屋には帰らないことにした。どこへ行くのか?知らない。ただ、歩いていくの。どこまでも、どこまでも。


No.250

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