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羊を数える

 深夜、電話の着信音に叩き起こされた。 それはとても乱暴で、情け容赦無く鳴った。
「もしもし」
 受話器の向こうから「眠れないの」という声。おそらく女の声だ。それも若い女。自分が何をしても許されるのだという、若さと美しさを兼ね備えた人間特有の傲慢さを言葉の端々に感じさせる種類の声。もちろん、この分析もまた傲慢で独りよがりだが、この分析は少なくとも誰かを夜中に叩き起こしたりはしない。その点、傲慢さということにかけては電話の主の方が一枚上手だろう。
 回線の問題か、ノイズが混じる。強引に開かれたせいで、回線も不承不承なのだろう。「眠れないの」 電話の主はそう言った。
「もしもし」
「もしもし」
「どちら様?」
「さあ」と声。
「かけ間違いでは?」
「間違ってない」と声はため息混じりに言った。「子守唄でも歌って」
 なんて無茶苦茶な話だ、と内心思ったが、なんだか放っておけないような気分を催させる。 不思議な声だ。甘えるようでいて、同時に命令するような強さがある。
「残念ながら、レパートリーに無い」 生まれてこの方子守唄なんて歌ったことがない。
 今度は純粋なため息が聞こえた。 落胆させてしまって申し訳ないという気持ちが芽生え、そのことに自分自身に憤った。どうしてぼくが申し訳なく思わなければならないのか。わからない。
「代わりと言っちゃなんだけど、一緒に羊を数えよう」 ぼくはそう提案した。
「それで眠れる?」 電話の声は言った。
「どうかな?」 ぼくは肩をすくめた。電話なのに。
 というわけで、一緒に羊を数え始めた。モコモコで、汚れない、真っ白な羊たちが、柵を飛び越していくのをイメージしながら。電話の声はどんな情景をイメージしているのかはわからない。 もしかしたら、薄汚れた羊たちがぞろぞろ歩いて来るのをイメージしているかもしれない。他人のイメージなど想像もつかない。
 かなりの頭数を数えたと思う。こちらも次第に眠気を催し始めた頃、受話器の向こうから寝息が聞こえてきたので、それを置いて布団に潜り込んだ。 なんだかひと仕事終えたあとのような疲労感を覚えた。なんたる徒労。しかしながら、妙な達成感もあった。少なくとも達成ではある。見知らぬ誰かを寝かしつけるという、誰にも自慢できないような達成ではあっても。
 それからというもの、時折そんな電話がかかってくるようになった。
「眠れないの」
「羊を数えよう」
 声の主については何も知らない。年齢、職業、容姿、その他諸々。そもそも本当に女なのかもわからない。若いのか、美しいのかも。もしかしたら、女のような声をした男かもしれない。声自体については知り尽くしているのに。ら行が特徴的なこと、さ行が少し苦手なこと。こんな電話を他の人間にもかけているのか。これについては一度尋ねてみた。
「他の人にもこんな電話を?」
「ううん。あなたは羊を数える係だから」
 他にどんな係があるのかはわからない。髪を撫でる係?耳に息を吹きかける係?興味が無いわけではないが、知りたくもない。 相手がどんな人間であろうとも、ぼくの達成感とは関係が無い。羊を数える。寝息を聞く。そこに達成感があるのであり、それ以外には特に必要無い。
 電話のない夜は、何事もなく眠れている夜なのだろう。それはそれでいい、健康的だ。しかし、こちらとすれば、電話がかかってくるのではないかと、気が気でない。そんなわけで、眠れなくなる。
 そして、そんな眠れない夜には、羊を数えたくもなるのだけれど、ぼくはそれを数えない。 羊は、あくまでも電話の声を眠りにつかせるためのものだからだ。






No.164

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