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神の涙は世界を浸す

 激しい夕立があったので、たぶん来ると思っていた。夜半過ぎに神様がやって来た。いつも通り、あたしの部屋のドアを、ゆっくり三回ノックする。それで、ドアの向こうにいるのが神様だとわかる。思ったよりも来るのが遅かった。添い寝をしてほしいと言う。 いつもそうだ。
「おいで」
 神様の頬には涙の川の流れた跡があった。神様が一度泣くと、町の一つや二つ簡単に水没してしまう。 一度なんて、世界を水没させたくらいだ。多くの人が死に、多くの生き物が死んだ。そのまま世界が滅んでもおかしくないほどだった。
「神様でも嘆き悲しむんだね」
「全知全能なんだよ、君たちよりも完璧に嘆き悲しむことができるに決まってるじゃないか」
 全知全能である神様がなにに嘆き悲しむのか、不完全な人間であるあたしは知らない。むしろそれはあたしが不完全なおかげなのかもしれない。不完全だから、知らなくてもいいことを知らないままに済ませられているのかもしれない。本当は、世界は悲しみに満ち溢れているのかもしれない。涙の洪水で洗い流されてしまった方が清々するくらいに。
 あたしは神様を伴って寝台へ行き、ふたりでそこに横になる。神様は幼子のようにあたしに手を引かれながら。寝台がふたり分の重みに軋む。灯りをすべて消す。
「全知全能なら、自分の悲しみを癒すことだってできるんじゃない?」あたしは冗談めかしてそう言う。本心じゃないことは神様もわかるだろう。なにしろ全知全能なのだ。
「何かあったの?」
「何も」と答えにならない答え。いつものことだ。神様は自分の弱みを見せたがらない。それこそが弱さなんじゃないかとあたしなんかは思うわけなんだけど。神様はあたしの胸に顔を埋めて、静かに息をしていた。
「ねえ」
「なんだい?」
「あんたって人殺しなの?」
 神様はあたしの胸から顔を上げ、あたしの顔をじっと見た。
「そんな噂よ」
「噂は噂さ」
「じゃあ真実は?」
「真実は真実さ」
 そして神様はまた丸くなってあたしに抱き締められた。寝息を立て始めるまでこうしていなければならない。そうしていてほしいなんて、神様本人の口から言うことはない。あたしがそうしていなければならないことを知っているだけだ。これは別に神様が全知全能で、テレパシーみたいな力で伝えているわけじゃないと思う。ただわかる、全知全能じゃなくても。
 そうして、いつもなら、ほどなく眠りに落ちるはずなのに、その夜は違った。息を潜める獣みたいに、神様はあたしの腕の中にいた。獲物を狙っているのか、捕食者から隠れているのかはわからないけれど。
「昨日は何を食べた?」
「何にも」
「そうか」
 神様はため息をついた。あたしは神様にかけるべき言葉を探した。「みんなはあんたが人殺しだって言うけれど、あたしはあんたを信じてる」とでも言おうか。それで何かが解決するだろうか。
「殺したよ」
「誰を?」
「たくさん」
「たくさんって?」
「たくさんはたくさんさ」
「そう」
「信じる?」
「みんながあんたを信じなくても、あたしはあんたを信じるわ。みんながよってたかってあんたを罵倒して、石を投げつけたとしても、あたしがあんたを守ってあげる」
 明け方、激しい雨の音で目が覚めた。神様は書き置きも残さず行ってしまった。 


No.180

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