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Soft and Wet

 小刀で傷を付けた指先を、そっと吸った姐やのあの唇の温もりが、いまだに残っている。
 大店の長男として、年取った両親に待望の子として産まれたわたしは、箱入り息子とでも言うべき扱いだったので、わたしの怪我したことを知った父は姐やを激しく叱ったのだった。それは完全にわたしの不注意から起こったことで、姐やには何の非も無かったのだが、大切に育てられた子どもの例のごとく、わたしは自分で何かを言うことが苦手で、姐やが悪くないことを訴えて助けてやることができなかった。わたしは父を恐れていたのだ。
 姐やはそう叱責されても嫌な顔一つしなかった。わたしの頭を撫で
「ごめんなさいね」と微笑んだ。謝るべきはわたしだったにも関わらずである。姐やはいつもわたしに優しかった。
 幼い頃、学校に上がるまでわたしは、姐やに育てられたと言って過言ではない。母は家をあけることの多い人だった。観劇だとか、音楽会だとか、そうした華やかな場が好きな人だった。わたしは母の温もりを知らない、と言えば言い過ぎだろうが、母の温もりよりも、姐やのそれの方が身近であったのは否定できない。そんな具合だから、ある時期わたしは実の母によりも、姐やになついていたくらいである。わたしは姐やに甘え、姐やはそれを許してくれた。
 指先の傷はすぐに消えた。
 姐やがあの頃いくつだったのか、わたしは知らない。 わたしにとって姐やとは、そのものとして存在するものであり、それ以外、幼い頃や、年齢を重ねるということを持たなかった。だから、姐やが嫁ぐことになったのが、一般的に見て早いのか遅いのか、わたしにはわからない。わたしが学校に上がってしばらくして、姐やは嫁いでいった。それはある日、唐突に訪れた。何の前触れも、兆しも無かった。もちろん、それは子どものわたしに教えられていなかっただけかもしれない。それでも、それはわたしに対して行われた悪巧みのようにわたしには思えた。わたしから姐やを取り上げようと誰かが企んだことなのだと、わたしには思えた。
 それは、人によっては、憤りを抱くような事態かもしれない。荒れ狂い、怒りを発露すべきことなのかもしれない。しかし、わたしはそうした怒りを持つにはあまりにも臆病だった。自分の怒りですら、それを直視するのに怯える様だった。わたしはただたださめざめと泣いた。幾日も幾日も泣いた。どんな慰めも効き目はなかった。家人はどうにか泣き止ませようとしたが、わたしは聞く耳持たず、最初は同情していた家人も、呆れ、最後には怒った。怒られても、わたしは泣くことを止めなかった。
 泣きながら、わたしは自分の指を口に含んだ。すると不思議と落ち着いたのだ。あの、小刀の切っ先が傷付け、姐やが吸ってくれたその指を、わたしは吸った。口に含まれ、その湿り気と柔らかさと温もりを感じると、わたしは安堵した。姐やがそこにいるような心持がした。そうしているうちに、わたしは泣き止んだ。しかし、それからしばらくの間、指をしゃぶるのが癖になってしまった。わたしはあの湿り気と、柔らかさと、温もりを求めた。
 それから何年かして、姐やが一度だけ挨拶に来たことがある。その頃わたしは難しい年頃で、周囲に壁を作っていて素直でなかった。姐やが来ることを知らされても、興味が湧かなかった。今となってみれば、わたしは恐れていたのだということがわかる。わたしの思い出の中の、あの頃の姐やが、現実の、目の前に存在する姐やに掻き消されてしまうのではないかと、それを恐れていたのだ。
 結局、わたしは遠目にその姿を見ただけだった。遠目にも、姐やは老けて見えた。苦労がありありと表れていた。小さな子の手を引き、門を出ていく姿から、わたしは目を反らした。
 わたしの指には、あの時の感触がいまだに残っている。


No.406


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