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空っぽのぼく

 街を歩いていると、人にぶつかられた。不注意でというわけではなく、明らかに故意だった。相手の故意だ。こちらはよけようとしたのだ。それが、その動きを追うようにしてぶつかられた。
 相手は小柄だったが、なかなかの衝撃だった。ぶつかる瞬間に力を込めたようだった。ぼくは一歩後ずさりし、相手を見た。
 ぶつかってきたその相手は女だった。若い女だ。小柄で、華奢で、その手にはなにか光るものが握られている。包丁だ。女は自分のやったことの効果を確認するように、ぼくの目を見詰めた。その目つきには、怒りと憎悪がこもっていた。
 ぼくは女の手にした刃物が刺したであろうあたりを押さえ、膝をついた。そして、前のめりに倒れた。足に力が入らなかったのだ。立っていられなかった。起き上がろうとしたが、力が入らない。ぼくは動かない手をどうにか動かし、傷口のあるであろうあたりを触る。血が溢れているだろう。それをどうにか押しとどめなければならないだろう。そう思ったのだ。しかし、そこに血のぬめりを感じることはなかった。そこから、空気が漏れるような、小さな風を感じるだけだった。パンクした自転車のタイヤの、その穴から空気が漏れるような、そんな感じ。
 ぼくはそれですべてを悟った。ぼくは空っぽだったのだ。どうりでなにも感じないわけだ。刺されたのに、痛くもなんともない。それを言うなら、これまでどんなことにも何も感じなかったように思う。歓喜に心震わせたことも、感動に涙したことも、怒りに打ち震えたことも、小さなものへの憐みで心を痛めたことも。
「こうなって」と、女はぼくを見下ろしながら言った。「当然」
「君は」と、ぼくはどうにか仰向けになり言った。空気が抜けていくにつれて、体の自由も少なくなっていっている。「誰だい?」
「あんたを恨んでいる人間」と言い、女は鼻で笑った。「そんな人間、山ほどいるのかもしれないけど」
 ぼくは意外だった。ぼくを恨むような人間がいるなんて、それまで考えもしなかったからだ。
「あんたがこれまでにしてきたことを考えれば、こうなって当然」女は言った。「人を踏みつけにし、情け容赦なく奪い取り、助けを求める声にも耳を貸さなかった。冷酷で、残忍で、誰彼構わず傷つけてきた。こうなって当然だ」
 そう言われて、ぼくは理解した。ぼくが空っぽで、なにも感じないがゆえに、ぼくは多くの人を傷つけたのだろう。多くの痛みを、多くの人にもたらしたのかもしれない。なにしろ、ぼくは空っぽで、痛みがわからないのだ。人の痛みもまた想像できない。不幸は、ぼくが人を、多くの人を傷つけるだけの力を持ってしまったことなのかもしれない。ぼくはため息をついた。
「あんたは死ぬ」
「そのようだね」と、ぼくは答えた。
「まるで他人事だね?」
 ぼくは肩をすくめようとしたが上手く体が動かなかった。「そうだね」
「怖くないの?」
「なにが?」
「死ぬの」
 ぼくはしばらく考えた。そして出た答え。「怖くない」ぼくはそう言った。「どうやらぼくは、なにも感じないんだ。なにしろぼくは」そう言い、彼女の刺した傷を見せた。そこからぼくの空洞の中身が見えるだろう。「空っぽだから」
「かわいそう」女はポツリと呟いた。
「え?なに?」
「わたしがあんたを憐れむとでも思った?」
「いや」と、ぼくは言った。「どうでもいいことだ」
「虚しい」
「虚しいね」
 そう言うと、彼は死んだ。わたしはあまりの空虚に息もできなかった。


No.607

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