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選ばれなかったわたしたちの話

 呼ばれたのはわたしの名前ではなく、誰かの名前だった。その名前が呼ばれた瞬間、そこにいたほぼ全員がキョロキョロとあたりを見渡した。唯一の例外がその誰かさん。口を覆い、いまにも泣き出しそうだと思ったら涙を流した。美しい涙、スポットライトは当てられていないのに、そこだけ光輝いているように見えた。そして、わたしはその光の外のその他大勢、彼女を輝かせるための背景。
 こうしてオーディションは幕を閉じましたとさ。めでたしめでたし。
 これは選ばれなかったわたしたちの話、いや、わたしの話だ。
 選ばれた人には物語があるように、選ばれなかった人間にも話はある。それでも、人生はつづくのだ。
 その瞬間、落胆が無かったと言えば嘘になる。わたしはそれなりに落胆した。自分の名前が呼ばれるのを期待しながら、そのオーディションで選ばれた名前が呼ばれるのを待っていた。とはいえ、呼ばれることは無いだろうなという、確信にも近い、諦めのようなものがあったのも否定できない。目の当たりにしたライバルたちの演技は、彼女たちをライバルだなんて呼ぶのがおこがましいくらい圧倒的で、わたしがそこにいること自体がそもそも場違いなのではないかと思わせ、本当は一瞬でも早くそこから逃げ出したかった。それでも待っていた。呼ばれることのない、わたしの名前を。
 そうなることは初めからわかっていたんだ。レッスンはいつもサボり勝ち、手を抜く事ばかりを考えて、それで叱られればふてくされ、そのくせオーディションには出る。結果は最初からわかってた。呼ばれることなどないわたしの名前。落胆するなんておこがましい。落胆できるのは落胆できるだけのなにか犠牲を払った人間だけだ。わたしにその資格があったかと言えば、ノーだろう。わたしにはその資格が無い。わたしはそれを払っていない。
「どうだった?」と、家に帰ると母に聞かれた。夕食の支度をしていたのを中断して。
「ダメだった」と答える。
「そう」とだけ、母は言った。母は期待していただろうか。私の名前が呼ばれることを。期待していたかもしれないし、していなかったかもしれない。
 わたしは自分の部屋に行くと、荷物を床に放り投げ、ベッドに倒れ込んだ。
 全部、「ふり」でしかない。やりたかったふり、やってるふり、なにかを望んでいるふり、そして落ち込んでいるふり。本当に全身全霊を込めて打ち込んだことも、なにかを強く望んだこともなかった。オーディションに選ばれなかったわたしは、選ばれなかったことでそれに気がついた。当然だ。本当に望んでいない人間に与えられるものなんてない。
 ドアをノックする音。「いい?」と、母の声。
「いいよ」
 ドアを開けた母の表情は、うしろの明かりで影になっていて見えなかった。
「大丈夫?」
「うん」
「落ち込まないで」
「うん」
「ごはん、もうすぐできるから」
「わかった」
「また、チャンスがあるよ」
「そうだね」
 母がドアを閉めると、わたしは自分がとても落ち込んでいることに気がついた。選ばれなかったことにではなくて、選ばれなかったのに落ち込んでいないことに。落ち込んでいないことに落ち込んでいた。
 もう、やめよう。わたしは目を閉じ、そう思った。別にやりたくもないことをつづけてなんになるのだろう。答え。なんにもならない。正解。以上。
「ごはんできたよ」という母の声。わたしは顔を両手でごしごしこすり、身体を起した。
 食卓に並んでいたのは、オムライスだった。ケチャップでなにか字を書こうとしたのであろうことだけわかるなにかが書かれている。
「なんで?」
「好きだったでしょ?」と、母。それは小学生の頃の話だよ、と言おうかと思ってやめた。
「なんて書こうとしたの?」
「秘密」と母。「失敗しちゃった」
「教えてよ」
「やだ」
「ケチ」と言いながら、わたしは席に着き、黄色いそれにスプーンを差し込む。そして、ひとさじすくい、口に入れた。温かい。懐かしい味。なんだか泣けてきてしまった。
 選ばれなかったわたしにも話があって、もしかしたら取るに足らないお話かもしれないけれど、それはそれで幸せなのかもしれない。
 そして、無数の選ばれなかったわたしたちがいて、そのどのひとりにも、ちゃんとお話があるのだと思うと、それはそれでいいのかもしれないと、そう思った。

 
No.515


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