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死んでる暇なんて

「なんで私なんです?」男はとげとげしく言うとため息をついた。「やっぱり納得できないな」
「さっきから何度も説明していますように」死神は普段でさえ困って見える八の字眉毛をさらに下げて言った。
「ルーレットだって言うんでしょ?」男は死神の言葉を遮って言った。
「はい」
「それが納得できないんですよ」
 死神は困りきっていたが、同時にこの事態はいつものことで慣れっこでもあった。死神の仕事はいつもこんな調子だ。死神の仕事と言えば、それは死を告げに行くこと。当然と言ってもいいだろう。すんなり「はいそうですか」と行く方が珍しい。今回は楽な相手かな、と思っても、そんな時に限ってしつこく生にしがみつかれて辟易したりする。腹の中では、大往生じゃないか、と思ってもそんなことは口が裂けても言えない。死神の仕事相手はいつだってデリケートだ。なにしろ死神の扱うものがデリケートなのだから仕方ない。
 死神の扱うもの、死。
 特に今回のようなケースは厄介だ。なにしろ相手はまだ若い。以前、同じようなケースで、半年がかりで口説き落としたこともあった。口説き落とすもなにもなく、ルーレットの決定は決定事項で変更不可だが、法律上の問題もあり、相手の納得が必要なのだ。実行には書類に自筆での署名が必要になる。
「今までの皆さんもルーレットの決定に従ってきたんですよ」死神は額に玉になった汗をハンカチで拭いながら続けた。
「そんなの知らないよ」男は腕組みし、そっぽを向いた。「誰がどうしたかなんて知らない。これはわたしの問題なんだ」
「ごもっともですが、そこをなんとか」死神は平伏して言った。
「無理です。わたしにはまだやらないとならないことが山ほどあるんです」
「やらないとならないことですか?」
「ええ、車のローンも払い終わってないし、明日の朝一番で重要な会議です。まだ結婚だってしてない。ささやかだけど温かい家庭を築かないと」
「それだったらなんの心配もありません」
「何を無責任な」男は鼻で笑った。「やらなきゃならないんですよ。わかってる?」
「ここにサインしてしまえば、全ての義務から自由になれるんですから」死神は書類を差し出した。
 男はまたため息をついた。「あのね、これをやりおえないとどうなるかわかってる?」
「さあ」死神は肩をすくめた。
「ちゃんと義務を果たさないと、半人前の人間だって後ろ指さされちゃうの。そんなことになったら死んでも死にきれない」
「さっき他の人間は関係ないとおっしゃってましたが」
「揚げ足とって嬉しい?とにかく、死んでる暇なんてありませんから」
 死神は死ぬほど多忙な自分を憐れんでいたが、その考えを改めた。死ぬ暇もないほど忙しい人間がいるとは。


No.488


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