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君でなくなってもらう、ということ

「君は優秀な男だ」と、彼らがエージェントと呼ぶ男は語りはじめた。黒い背広に、無表情。髪はぴっちり横わけにされている。
 とはいえ、「彼ら」とは誰か?彼は自分の他にも自分と同じような仕事をしているものを知らなかった。「彼ら」、あるいは、彼の仲間のようなものたち。
 しかしながら、彼は自分と同じような仕事をしているものがいるはずだ、と考えていた。エージェントは彼の行動をその隅々まで把握していた。日常のささいなこと、会計のときに硬貨を取り落としたということから、どんな女と寝たかまで。エージェントは時折そんな話題をそれとなく出してくる。それは見張られていることを忘れるなというメッセージなのだろう。恐らく、自分と同じような間諜が、自分を見張っているのだろうと、彼は考えていた。彼の裏切りがあれば、即座に対応できるように。では、その間諜は?その間諜が裏切らないともかぎらない。もしかすると、その間諜を見張る間諜がいるのかもしれない。無限に後退しかねない想像に、彼はめまいをもよおする。彼は現実的な男だから、少しそれを覗き込んだだけで、とっさに目を背けた。それでも、後頭部の辺りにぼんやりとその存在、巨大で強大な組織の存在を彼は感じていたのだ。彼と同じ仕事をしているものがいないはずはない。
「非常に優秀だ」
「そりゃどうも」と、後ろ手に縛られた彼は言った。海に面した倉庫の中、明かりは裸電球だけ。パイプ椅子に座らされた彼は、後ろ手に縛られていた。冗談みたいな状況だな、と彼は思っていた。まるでドラマか映画だ。
「我々が」と、エージェントは続けた。「この仕事の適性と考えるものがなにかわかるかね?」
 彼は肩をすくめた。後ろ手に縛られているためにあまり上手くはいかないが、いつも通りのニヒルな人間を演じようとしている。
「君には組織に対する愛がない」と、エージェントはニヤリと口角を上げながら言った。「それこそが適性だ。愛と憎悪は同一のものであり、忠誠と裏切りもまたそうだ。君は愛を持たないが裏切らない。愛を持たないがゆえに裏切らない。我々が適切な処置を行う限りは」
 彼はため息をついた。「これが」と縛られた手を動かした。「適切?」
「そうだ」とエージェントは言った。「君は知りすぎてしまったのだよ。君には何の恨みもない。むしろ感謝の念にたえないよ。しかし、我々は君が君として存在しているということが実に不都合なのだ」
 彼は大きく息を吸い込み、そしてそれをゆっくりと吐き出した。彼は組織のそうした非情さを理解していた。エージェントのいう通り、実際彼は多くのことを知っていたし、理解もしていたのだ。組織は非情であり、冷酷だった。そしてまた、彼もそうした非情さに荷担したのだ。
「切れすぎるナイフを狂人たちの前に落としたくはない」
「自分たちはまともだと?」
 エージェントは鼻で笑った。「ナイフを持たない狂人にはなりたくないのだよ」
「じゃあ、持ち続ければいい」
「ふむ」とエージェントは顎をさすった。「そのナイフで刺されたものが出てね。それを持っているのは少々都合が悪いのだ」
 彼の脳裏に川に投げ込まれる血のついたナイフの像が浮かんだ。気泡を上げながら沈んでいく白い刃。川底で錆びていくのだ。
「しかし」とエージェントは言った。「我々もそこまで無慈悲ではない。君に選択肢を与えようと思うのだ」
「選択肢?」
「一つは死んでもらうというもの」これは彼にも予想できていたし、その覚悟の準備を必死で行っていたところだった。「もう一つは」
「もう一つは?」
「全く別の人間になってもらう。顔も名前も指紋も人格も」
 死にたくなかった彼はその選択肢に飛び付こうとしたが、ある言葉が気になって踏みとどまった。「人格も?」
「顔を整形手術で変えるように、我々の用意した人格手術で人格を変えてもらう。君に君でなくなってもらう、ということだよ。君の記憶も、性格も、きれいさっぱり消させてもらう」
「それは死とどう違うんだ?」
 エージェントはニヤリと笑った。


No.572


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