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海と月

 海が月に恋をした。それはかなわぬ恋であった。なにしろ、海は徹頭徹尾重力に縛られた存在であり、月もそうだと言えばそうだが、重力のその束縛を振り払わなければ、地上を這い回る卑小なものでは月には手が届かない。手の届かない、かなわぬ恋ほど甘美なものも他にあるまい。
 海は、自分が恋をした瞬間に生まれたのだと信じた。それは一目ぼれだった。落下するような、突風に帽子をさらわれるような、恋。それまでの海はただただぼんやりと、べたりとそこを満たしているだけだった。川から流れ込んだ水の、最後に集まる場所であるだけだった。ただぼんやりとあり、そこに自分というものは無かったのだと、海は思った。それはそれなりに幸せなことだろう。それなりに満ち足りたことだろう。しかしながら、海は恋をした。月に恋をした。
 ある夜のこと、海は自分の中に空白を見つけた。白い穴が空いているのだ。そんなものに気づいたのはその時が最初だった。あるいは、それまでもそうしたことはあったに違いないが、それまではそんなことは気にも留めなかったのだろう。最初、海は慌てふためいた。自分にポッカリ穴が、白い穴が空いたものと思い込んだからだ。もしかしたら、その穴が原因で自分は死んでしまうのかもしれない。これまでにそんなことに気づいたことはなかったものだから。慌てて、その穴をよく見ようとジャブジャブと波を立てていると、夜更かしの魚がやって来た。
「なにしてんだい?」
「穴が空いてしまったの」
 海がそう言うと、魚は笑った。そして、夜空を指さした。「それは月だよ。今日はきれいな満月だ」
 瞬く星々の中でひときわ明るく、丸く光るものがあった。それはどこまでも白く輝いていて、海にはそれが自分に微笑みかけているような気がした。
「月」それが海が恋に落ちた瞬間であり、海が海になった瞬間だった。
 それからというもの、海は月のことばかりを考えるようになった。どの恋もそれは変わらないだろう。恋する相手のことが頭からひと時たりとも離れない。ぼんやりしていると相手のことが気になる。なにをしているのか、どこにいるのか。美しい風景を見れば、その相手にもそれを見てもらいたいと思う。恋とはそう言うものだろう。海の恋もまたそうであった。月が姿を見せない昼間には、海はいつも月のことを考えていた。
 そして、夜になり、月が空に姿を現すと、月は懸命にそれに向かって手を伸ばした。ぶしつけさに嫌われやしないかという不安もあったが、恋する相手に触れたいと思うのは仕方のないことだろう。海は手を伸ばす。もちろん、それが届くはずがない。しかし、諦めることなく何度も、何度も手を伸ばす。そして、それは波になった。波は海が月に触れんと手を伸ばしている姿だった。
 時折、雲が月を隠すことがあった。海には雲がしたり顔をしているように感じられた。雲が月との逢瀬を楽しもうとしているように見えたのだ。海は雲に嫉妬した。ふたりで隠れてなにをしているのかと腹を立てた。雲と、月にまで、呪詛の言葉を胸の中で叫び、月など無くなってしまえばいいのにと念じ、風を呼び、そして、その雲を払った。月がその姿を再び現すと、海は腹を立てていたのも忘れて歓喜した。月のその美しい姿に見とれ、そして、また雲が出れば怒るだろう。
 こうして、幾晩も、幾年もが過ぎた。その距離が縮まるなどということはありえず、海の伸ばす手が届くはずもなく、それはかなわぬ恋なのだということがわかりすぎるほどわかっていた。しかしながら、だからと言ってどうなろう。かなわぬ恋でも恋は恋、かなわぬものだからこそどうしても手に入れたい、海ももちろんそう思った。
 ある夜、夜更かしの魚が妙なものが海に浮かんでいるのに気づいた。それは白く、丸く、ふわふわと漂っている。どうやらそれを作っているのは海のようである。
「なんだい、これは?」魚は海に尋ねた。
「月」とだけ海は答えた。
 魚は口でそれをつついてみた。それはぶよぶよしていて、とても月には見えなかった。
「月よ」と海はかたくなだったから、魚は「ああ、わかったよ」と物分かりの良いふりをした。海と喧嘩をしても面白いことはないだろう。
 海月の話。


No.373


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