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 するりと抜けてしまったわけである。どうやって?と、尋ねられても答えに窮するだけだ。何かの拍子にするりと抜けたのだとしか答えようがない。これでは何も答えていないのと変わらないから、さぞかし不満に思われることだろう。それなら最初から尋ねないでもらいたい。こちらとしても、なにかしらの説明をしたいとは思いながら、果たせないで心苦しく思っているのだ。
 そこには壁があると思っていた。比喩的な意味合いではなく、壁である。物理的な存在としての壁だ。それがあれば、そこから先には行けないし、そこで引き返さざるを得ないような、壁。それは絶対的なものであり、我々を拒み、我々の視界を遮り、その向こうに行かせることはおろか、その向こう、あちら側に何があるのかさえも隠していた。壁は壁としてわたしたちの前に立ちはだかり、世界に厳然と線を引いていたのだ。我々にとっての世界とはつまり、こちら側、その壁までのことで、その先、壁の向こう側など、意識に上ることすらなかった。
 ところが、前述したように、本当にするりとその壁を抜けてしまったのだ。普段はその前を行き過ぎる壁に、ふとした拍子にもたれかかったのだ。すると、するりと抜けた。
 壁を抜けてみると、今までいたのがあちら側で、考えたこともない壁の外がこちら側になった。まあ、当たり前のことだ。それでも、行くことのできないと思っていたそれまでのあちら側、つまり壁の外がこちら側になるのはなんとも不思議な気分である。あちら側がこちら側で、こちら側だったのがあちら側になった。
 それまでは、壁は壁なのであちら側は見えなかったわけだが、それは実際に来てみるとさほどそれまでいた側と変わらなかった。今までいた側と同じような景色が広がっており、そこにも人はいて、それも見る限り普通の人たちだ。
 振り返って見ると、抜けてきたはずの壁がない。もしかすると、そもそも壁などなかったのかもしれない。壁など無かったのだ。こうなると、壁を抜けたというのも実際ちょっとおかしい。抜けるもなにも、そこには最初から何も無かったのだ。ただある地点から別のある地点へ移動しただけに他ならない。なんとも、今まで目に写っていたあれはなんだったのだろう、と少し拍子抜けする気分だ。
 壁だと思っていた方向を何気なく見ていると、友人が歩いてくるので声をかけた。ところが彼はキョロキョロと辺りを見回すばかりでこちらに気付かない。ああ、彼には壁が見えているのだな、と得心し、事情を説明した。
「どうやって壁を越えたんだい?」友人は尋ねた。
「壁なんかそもそもないんだ」と答えた。
「バカ言え」と彼は何も無いところを、まるで壁があるかのようにさすった。「ちゃんとあるじゃないか」
「無いよ」と笑いをこらえながら言った。
「どこかに梯子でもあるのか?」と彼は壁を拳で叩くような仕草をする。それも何も無いところでピタリと止まる。上手いパントマイムを見ているような気分になる。いささか滑稽な姿である。
「ほら」と壁などないことを示そうと、ひょいと彼の隣に移ってみた。友人は驚いている。
「壁を抜けた!」
「だから、壁なんか無いんだ」
 友人は青い顔をしていた。それ以降、その友人とは疎遠になった。どうやら、彼とわたしの間に壁ができてしまったらしい。


No.284

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