ありがとうって伝えたくて

 歩いていると、見ず知らずの人に「ありがとう」と急に言われた。
「えっ?えっ?」とまごついているうちに、その人は微笑み、行ってしまった。「ちょっと、えっ?なんで?」あとに取り残された私。何も感謝されるようなことしてないのに。そしてもう一つ残されたもの、余分な『ありがとう』だ。
 家に帰って改めて考えてみて、さらに頭をひねってみたが、どう考えても私には関係の無い『ありがとう』だ。これは困った。だって、私なんかにはもったいない『ありがとう』なんだもの。私は何ひとつ感謝されることなんてやってない。といって、その『ありがとう』をそこら辺に捨てるわけにもいかない。そんなことしたら完全に恩知らずで非常識だ。というかそもそもそんなことできるわけない。だって、『ありがとう』をそんな風にするのって、ねぇ。なんか無理でしょう?自分が誰かに渡した『ありがとう』が道端に転がっていたりしたら、間違いなく涙目でしょう?かと言って、縁も所縁もない『ありがとう』はそれはそれで困りもの。
 ああ、あの人はなんてことをしてくれたんだ。何もしてない私に『ありがとう』なんて。もしかして、新手の嫌がらせだろうか?ちょっとしたテロ?ありがとうテロ?でも、そんなに悪い人には見えなかったな。いやいや、人は見掛けによらないって言うし。でも、悪い人があんなに爽やかに微笑むはずない。あの人は『ありがとう』を使う場面でないところで使ってしまって大丈夫なんだろうか?『ありがとう』が一つ足りなくて平気なんだろうか?『ありがとう欠乏症』で困っていやしないだろうか?そんなのがあるか知らないけど。でも、もし本当にそうなら、この『ありがとう』はあの人に返さないと。
 はっ!もしかして、あの人も誰か別の人に余分な『ありがとう』をもらったのかも。それなら納得できる。その余分な『ありがとう』を私に押し付けたんだ。そうに違いない。じゃあ、私もそうすればいいんじゃん。
 というわけで、街に出てみたものの、中々『ありがとう』を使うことができない。みんな足早に通り過ぎて行ってしまう。こうして見ると、私は多分すごくぼんやり歩いていたんだな。
「あ、あの」と呼び掛けても、怪訝な顔をして行ってしまうだけ。何かの勧誘と間違われて追い払われたりもする有り様。そんな人にこの『ありがとう』を渡したくなんかないから、それはそれでいいけどさ。
 たまに立ち止まってくれる人がいたりすると、そのことに感謝してしまって、普通に「ありがとう」と伝えるだけになってしまって、余分な『ありがとう』を消費できない。ああ、ダメダメ、感謝しちゃダメだ。感謝しないで「ありがとう」と言わないと。って、それってすごく難しくない?だって、感謝しちゃうじゃん。
 と思ったら「ありがとうございました~」店員が軽い感じでそう言ってる。あんな感じで言えたらな。いいのにな。そうすればこの『ありがとう』ともお別れできるのに。でも、観察しているとあることに気づいた。あの「ありがとう」では何も移動していない。あれじゃこの『ありがとう』は伝えられないんだ。なにも乗っていない、ただの音としての「ありがとう」。感謝しないで『ありがとう』を言うだけじゃ、この『ありがとう』を伝えることはできないんだ。そんな『ありがとう』は『ありがとう』じゃないから。わたしは考え違いをしていたんだ。
 じゃあ、どうしたらいいの?『ありがとう』に聞いてみよう。
「そりゃ、感謝することさ」と『ありがとう』は言う。
「やっぱりね」 感謝の無い「ありがとう」は『ありがとう』ではあり得ない。
「なんだよ、わかってたんじゃないか」
「でも、なんにも無いのに感謝するなんておかしくない?」
『ありがとう』は首を横に振った。「おかしくないよ。物々交換じゃあるまいし」
 その一言を聞いて、私は自分の中に力が涌いてきているのがわかった。ただの音としての「ありがとう」でも、なにかに対するお礼の『ありがとう』でもない、ありがとう。
 というわけで、高層ビルの屋上にやって来ました。大丈夫、飛び降りたりしないから。ここからなら世界中に響くでしょう。
 これは私のテロです。みんな無償の感謝をもて余すがいい。
「みんなありがとう!」



No.149

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