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言葉が無かったら

「ごめん」という言葉を発明した人をぼくは恨む。どうしてもっと簡単で、言いやすくて、いともたやすく口にできるようにしてくれなかったのか。それはぼくの喉元につっかえ、どうしても外に出て来ない。それが簡単なことなのはわかっている。「ご」と「め」と「ん」を流れるように発音すればいいだけだ。簡単なことじゃないか。「ご」なんて簡単に言えるし、「め」だってそうだ。「ん」なんてわざわざそれを声に出そうとがんばらなくても出るような音だ。そう、簡単なこと。でも、それが連なると、ぼくの喉元につかえてしまう。「ごめん」が出て来ない。
 土曜の夜、ぼくは妻を傷つけた。それはほんのささいなことだった、と、ぼくは言うだろう。それは全然ささいなことではなかった、と、彼女はきっと言うだろう。実際には彼女はなにも言わない。
 日曜の朝、彼女は口をきいてくれなかった。目が合ったけれど、すぐにそらされた。ぼくはなにかを言おうとしたのだけれど、言えなかった。そして、ぼくらはすれ違い続ける。言えなかった言葉、言わなかった言葉、ささいなこと、とても大切なこと。
 それがささいなことだったとぼくが主張するのには、たぶんにそれがささいなことだったと思いたい、信じたいという気持ちが紛れ込んでいる。あるいは、自分自身にそう言い聞かせるような、そういう独り善がりさと、傲慢さが見え隠れする。あるいはもっとズルくて、それをささいなことにしてしまいたいという魂胆さえ見て取れるかもしれない。それがささいなことだったのかどうかを決めるのは彼女なのだ。
「ささいなことだよ」と、彼女がそう言い、微笑んだのなら、それはささいなことだった。しかし、彼女はそうしなかった。なにも、一切、言葉を口にしなかった。ただ、悲しそうな顔をしただけだ。
 ここでぼくが彼女になにをしでかしたのかは語らないことにする。あなたにとってそれがささいなことかどうかはわからない。それはとても大切なことで、彼女の怒りももっともだと思うかもしれないし、逆に、ぼくに同情する人もいるかもしれない。しかしながら、結局のところそれを決めるのは彼女であり、ぼくがそれを喧伝して味方を集めるような真似や、逆に彼女に同情する勢力を生み出すのを彼女は望まないだろうからだ。
 事実として、ぼくは彼女を傷つけた。それだけでいい。
 日曜の昼も、日曜の夜も、ぼくはの間に言葉は交わされなかった。ベッドに入る。もしかしたら、もう二度と彼女と会話をすることはないのかもしれないと不安になる。彼女と笑い合っていたころを思い出す。別にそれはそんなに昔のことではないのだ。金曜日の夜には、くだらないことで笑い合っていたのだ。それがもう失われてしまったみたいな気分だ。二度と戻らない楽園の記憶のようだ。
 月曜の朝。ただでさえ憂鬱な月曜の朝。目覚めて、心にのしかかる重みを感じ、それがなんだったかを思い出そうとする間もなく思い出す。彼女が口をきいてくれない。
 簡単なことだ。ぼくが謝ればいいのだ。心から謝罪すればいいのだ。いや、もちろん、それで許されるかどうかはわからない。許されないかもしれない。それでも、ぼくにできるのは謝ることだけなのだ。許すか許さないかをぼくは決められない。それを決めるのは彼女だ。
「ごめん」それを言うのを頭の中でイメージする。「ごめん」。喉元でつかえそうなイメージしかわかない。言えるだろうか。言わなければならないのだ。
「あ、あ、あのさ」と、ぼくは彼女に声をかける。彼女はぼくを見る。「いや、あのさ」
「なに?」と、不機嫌そうな声。
 ぼくは深く息を吸う。目を閉じ、開く。
「ごめん」
 ぼくは「ありがとう」という言葉を発明した人に感謝する。そのひと言で、いろいろな思いを一気に伝えられるからだ。
 ぼくの言葉に答えた彼女の言葉に答えて、ぼくは「ありがとう」と言った。


No.667
 

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