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足音だけの人

 あるところに足音だけの人がいた。その人にあるのは足音だけで、足音だけの人には、頭も胴体も腕も足も何もなかった。つまりその人には姿形というものがなかった。口がないので喋ることができないし、耳もないので何かを聞くこともできない。鼻だってないので、花の香りを楽しむなんて無理な話だ。その人にあるのは本当に足音のみだった。
 最初、足音だけの人が現れた時、人々は驚いたし怖がった。コツコツコツ、と足音がしたと思って見ても、人影はない。それでも足音はし続けて、少しづつ近付いてくる。そして、まさに目の前で足音がした、と思ったら、今度は少しづつ遠ざかっていく。コツコツコツ。人々はそんなことを体験したことがなかったから、薄気味悪がった。どうにか追い払おうとしたし、心霊現象ではないかと霊能者を呼んでどうにかしてもらおうとしたりした。といっても、足音だけの人は足音だけなので、捕まえてどこか遠くへ追いやるなんてこともできず、霊能者はインチキだったようでちっとも効果は上がらず、薄気味悪いと怖がったりしているうちに次第に慣れてきて、まあ足音だけの人が存在してもいいかと思うようになった。 慣れとは怖いものである。
 足音だけの人は足音だけの人で変化があって、最初の頃はただ歩き回っているだけだったのが、道で人に会うと踵を鳴らして音を立てるようになった。人々は足音だけの人が何をしているのか理解できなかったが、誰かが「挨拶をしているんじゃないか?」と言ったので、みんなそうに違いないと思うようになった。
 足音だけの人が踵を鳴らす。
「こんにちは」とすれ違う人は言う。
 足音だけの人は目がないからそこに人がいるのはわからないはずだし、耳がないから挨拶をされても聞こえないはずだが、それは考えないことにしよう。そういうこともあるものだ。
 そんなある日、足音だけの人はある若い娘に恋をした。といっても、足音だけの人には口がないのでそう宣言したわけはないし、愛の言葉を囁いたなんてこともない。ただ、足音だけの人がその娘の前で立てる足音が普段とは違ったのだ。人々は口々に噂した。「どうやら恋に落ちたようだ」
 足音だけの人は娘の前で、足音だけで愛を囁いた。コツコツコツコツ。娘はその足音で奏でられる美しい音楽にうっとりとした。
コツコツコツコツ。
 足音だけの人は娘のために毎日毎日踵で美しい音楽を奏でた。コツコツコツコツ。
「あなたが好きよ」と娘が言う。
 コツコツコツコツ。
 ところがある日唐突に足音がしなくなった。娘は足音だけの人の心が自分から離れてしまったに違いないと嘆き悲しんだ。ほんの些細な足音を聞いた者すらいないところを見ると、この土地を離れてしまったのかもしれない、と人々は思った。足音だけの人がいなくなってしまったことを、人々は悲しんだ。
 実際のところ、足音だけの人は踵が磨り減ってしまって、足音を立てられなくなってしまっただけだった。足音だけの人は足音さえもない人になってしまったのだ。足音さえもない人は、足音すらも立てられないので、誰かに何かを伝える術を持たない。もちろん、足音のだけの人、改め足音もない人も娘同様嘆き悲しんだ。しかし、なす術はないのだ。
 ここで、心優しいお話の作者であれば、足音だけの人に姿を与えたり、あるいは新しい靴を用意するだろうが、残念ながらこのお話の作者はそういった類いの作者ではなく、冷酷無情のひねくれ者である。
 足音だけの人が自分のもとを去ってしまったと思った娘は深く嘆き悲しんだ。足音だけの人を深く愛していたからだ。しかし、その失恋の傷は次第に癒え、別の新しい恋を見つけ、それを育んで愛にし、結婚をし、子どもを産んでそれを育て、そうして年老いて死んだ。夫や子どもたちを深く愛していたが、それでも彼女の胸の一隅から足音だけの人が去ることはなかった。彼女は死のその瞬間まで、心のどこかに足音だけの人の、かかとで奏でる愛を覚えていたし、耳にそれを聴くこともあった。
 足音だけの人はすでに足音すらも無い人だったので、どうなったのかはわからない。恋して娘が幸せになる様を見守ったのかもしれないし、そこを去ったかもしれない。しかしながら確実に言えるのは、足音すらも無い人は、足音すらも無いからこそ、娘の心の中にある自分への愛、形なきそれの存在に確かに気づいていたということだけは、キッパリと断言できるのだ。





No.183

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