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ただいま。おかえり。

 錦を飾るつもりで飛び出したのに、尾羽うち枯らしてフラフラになりながら帰ってくることになるなんて。
 わたしの上京に最後までがんとして反対したのは案の定父だった。父は若い頃から自分の腕一本で稼いできた大工で、頑固で無口ですぐにカッとなって怒鳴って、わたしは父が嫌いだった。クラスメイトの父親たちのような、背広を着ているサラリーマンが父親なら良かったのに、と何度となく思ったものだ。わたしが夢を追って上京したいと言った時も、絶対に反対するだろうと、わたしは思っていた。反対されても、家出同然でも行くつもりでいたから、旅立つ準備はしてあった。準備と言っても、小さなバッグに少しの着替えが詰められただけだ。夢を追う者に、物はいらない。その身体と志だけでも、わたしはそこを飛び出しただろう。退屈な退屈な田舎町、そこにいたら、わたしは錆び付いて退屈な退屈なおばさんになってしまうだろうと思っていた。上京すれば、輝かしい生活が待っていると思っていた。
 現実は現実、それが冷たいだなんて思わない。過ぎ去ってしまえば、そういうものだよ、と言える。落ち込んだりもしたけれど、それもそういうものだ。夢が潰えるのなんて簡単なこと。それこそ雨後の竹の子みたいに夢を持った人間がやって来て、その中の幸運な人がそれを掴むのだろう。
「父さんも帰ってきたら良いって言ってるのよ」と母の言葉でわたしは呆気なく白旗を上げることにした。自分なりにだけど、それでも踏ん張ってきていたのだ。ほんの些細なことで折れてしまうくらい。わたしは父がまだわたしのことを許していないものだと思っていた。故郷にはかえれないと思っていた。飾る錦でもないと、受け入れてもらえないと思っていたのだ。頑固な父だ。簡単に許しは出ないと思っていた。それが、母のその言葉で溶けてしまったのだ。もしかしたら父にも許してもらえるかもしれない。わたしは結局のところ甘ったれた子供でしかなかったのだ。夢を口にしながら、駄々をこねていただけだ。
 懐かしい町並み、山や海、あんなに忌々しかったものが、簡単に美しく見える。嘘っぽいかもしれないけれど、そう見えた。自分でもどの面下げて、と思う。結婚して、親になった同級生も多い。果たしてわたしはここで生活していけるのだろうか。そんな不安もあった。
 わたしが帰ったことを、母は手放しで喜んだ。その晩の食事はちょっとしたご馳走だった。
「やめてよ、お母さん」とわたしは言った。「まるで何かのお祝いみたい」
「あんたが帰って来たんだから、お祝いよ」
 わたしはため息をついた。「有名になって、お金持ちになって帰って来るつもりだったのに、無名のまんま、誰もわたしの名前なんて知らないまんま、出る前とおんなじか、それ以下だよ」
「俺は」と突然父が言ったので、わたしは身構えた。怒鳴られると思ったのだ。ところが「お前の名前を知ってる。それで、いいじゃないか」そう、憤然とした様子で呟くと、杯を空けた。お酌をしながら、わたしは涙をこぼした。
「ただいま」
「ああ、おかえり」




No.176

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