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おかえりなさいまし

 友人に招かれ、その家に行ったのだが、その招いた本人がなんと不在であった。出迎えてくれたのは、その細君である。
「申し訳ありません」と、細君がわたしに謝罪をした。「じきに帰って来ますので、お上がりになってお待ちください」
 その言葉に甘えて友人の家で待つことにした。招いておいて帰らないなどということはあるまい。おそらく、近所に何か用のあったに違いない。さては、待たせに待たせていた例の原稿を速達で出しに行ったか。しかしながら、彼のいない理由を細君に尋ねても要領を得ない。
「郵便でも出しに行きましたか?」
「なんだかそんなことを申していたような気もしますし、違うような」
「酒でも買いに行ったかな?」
「もしかしたら、そんなことを申していたような気もしますし」
 そして、友人は待てど暮らせど帰らない。
「帰りませんね」わたしは時計を見た。だいぶ遅くなっていた。
「じきに」と細君は言う。これだけは決然としていて、自信を込めて断言をする。「じきに帰りますわ」
「しかし、もうだいぶ遅い」と、わたしは言った。「また日を改めましょう。ご迷惑でしょうし」
「迷惑だなんて、そんな」と細君は言う。「帰られてしまいますと、心細くてなりません。家には私一人のものですから。どうかあの人の帰るまでいてくださいませんか?」
 細君は本当に心細い様子であった。新聞紙上を様々な事件が賑わすご時世でもある。仕方なしに、わたしは待つことにした。帰ってきたらとっちめてやらねばなるまい。そう腹の中で独り言ちた。しかしながら、それが間違いであった。
 わたしは友人の細君の料理を食べ、風呂を浴び、そしてその細君と床を共にした。それはごくごく当たり前のことのように思えた。そして、翌朝になるとわたしは仕事に出掛け、その家、友人の家に帰った。友人は帰っていなかった。
「ただいま」と、わたしは帽子を取りながら言った。
「おかえりなさいまし」と、細君は三つ指ついて言った。
 また細君の料理を食べ、風呂を浴び、そして細君と床を共にする。二日目ともなると、むしろそれが自然の成り行きであるように思えてきそうだった。しかしながら、そこは友人の家であり、わたしのくるまるのは友人の所有するところの布団であり、それは友人の細君であった。そうして日々は過ぎていった。相変わらず友人は帰らない。細君もそれについて何かを言うでもない。
 わたしはそこの、友人の家の一部になりつつあった。わたしはそれが、そのことが恐ろしくなりはじめていた。わたしがわたしでなくなってしまうのではないかという恐れ。わたしは誰だ?
「ただいま」と、わたしは帽子を取りながら言う。
「おかえりなさいまし」と、細君は三つ指ついて言う。それは、誰の細君なのだ?
 このやり取りをするごとに、わたしはその家の、細君を中心とするその家の一部になっていっていった。その家の流しや、卓袱台や、箪笥や、湯呑みや、茶碗や、箸のように。そこの匂いを孕むなにものかになりつつあった。わたしが薄れていっていた。はじめ感じたその匂い、自分の匂いではない、友人の家の匂い、不快ではないが、そこはお前の場所ではないと告げる匂いを、次第にわたしは感じなくなっていた。わたしがその匂いを発しはじめていたのだ。
「いってらっしゃい」
 この言葉は、わたしにとって「ただいま」という言葉を要求する脅迫であった。帰って、「ただいま」と言えという、脅迫である。そうしてわたしはその言葉を言い続けた。
「ただいま」
「おかえりなさいまし」
 ある時、わたしは友人を、先に出た、その家の主である友人とは別の友人を家に招いた。そうして、約束の時刻の少し前に、わたしは出奔したのだった。
 あの家には、もう二度と帰るまい。


No.421


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