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話せばわかる

「わたしはね」と、交渉にやってきた男は言った。とても地味な男で、しがないサラリーマンと言った風体、背広は心なしかくたびれている。「物事全部、話せばわかると思っているんですよ。もちろん、時間がかかることもあるでしょう。だけどね、時間さえかければ、必ずお互い満足のいく結果を導けるはずなんです。世の中の争いは、そういう手間を嫌うから起こる。後になれば、話し合いで済ませておいた方が良かったってわかることになるのに。わかるでしょう?力づくは後の災いのもとですよ」
「はあ」とわたしは答えた。なにしろ、この交渉人がなんの交渉にやってきたのだか、わたしにはわからないのだ。とにかく話が回りくどい。なかなか本題に入らないのだ。「で、あなたはなんの交渉にきたんです?」
「そうでした」と、男は媚びるような笑顔を見せた。「わたしの詰まらない話で大切な時間を割かせてしまって申し訳無いです。そろそろ本題に入りましょう。まず、わたしの雇い主、今回の交渉の依頼人なのですが」
 と、男の口にした名前はわたしと利害の対立する人間であった。その名を聞くことすら忌々しい。
「あいつのどんな頼みも聞く耳を持つつもりはありません」とわたしは断固たる口調で言った。「どんなものも」
「お二人の関係はお伺いしております。そう言われると思っておりましたよ」男は言った。「で、まだ依頼人のご希望をお伝えしておりませんね。いやいや、もちろんあなたがどんな要求も撥ね付けるであろうことは百も承知です。その上で、わたしの依頼人の希望をお聞き願えればと思うのですよ」
「あいつは何を望んでいるんだ?」とわたしはいきり立って言った。「一応聞くだけ聞いてやろう」
「あなたの死を」と男は言った。その口調があまりに平静なものだったから、わたしが何を要求されたのか認識するまでに少し時間がかかった。
「なんだって?」
「依頼人はあなたに死んでもらいたいと考えています。ああ、申し遅れました。わたくし、こういうものです」
 差し出された名刺の肩書きは殺し屋である。
「あんた、殺し屋なのか?」
 わたしはその『殺し屋』の文字と男の顔を見比べた。男の容貌は保険の勧誘のようではあれ、どんな種類の殺し屋にも見えない。
「ええ」と男は言った。名刺入れを懐に戻す動きが銃を取り出すそれなのではないかと身構えたが、ただ名刺入れを懐に戻しただけだった。「確かに人を殺すことを生業としていますが、わたしは手荒なことが嫌いです。人を痛めつけて喜ぶサディストじゃない。話し合えばいつかわかりあえる。わたしはそういう穏やかな人間です。殺し屋には様々なものがいるでしょう。銃を使うもの、ナイフを使うもの。わたしの場合は言葉、交渉で人を殺すのです」
「馬鹿な」とわたしは鼻で笑った。「死んでください、と言われて、はい死にます、なんて人間がいるものか」
「みなさんそう仰います」
「恫喝でもするのか?」
「いえいえ」
「昼も夜も関係なくつきまとって精神を病ませる?」
「滅相もない」
「じゃあ、どうやって?」
「交渉です」と男は荷物をまとめだした。「根気強く交渉させていただきます。そして、納得した上で死んでいただく。それがわたしの仕事です。ああ、訪問する際にはちゃんと約束をさせてもらってから参りますので」
「そんな約束するわけがないだろう」
「まあ、そこも交渉ですから」と、男は笑った。「では、また参らせていただきます。それまでお体に気を付けて。わたしの仕事はあなたに死んでもらうことですので、不慮の事故や病気で死なれてはたまりませんから」
 そう言うと、殺し屋は帰っていった。

No.275

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