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さがしている

 その人は探していた。道端の石をひっくり返してその下を探し、草むらをかき分けその中を探し、自動販売機の下を覗き込んで探し、川に入ってその底を探し、探しに探した。常に俯き、足元を探し、時折顔を上げ、遠くを探した。とにかく、常に探していた。しかしながらその人は自分が何を探しているのかを知らなかった。それどころか、自分が何者で、どこから来て、どこにいるのかも知らなかった。まったくもって何も知らなかった。知っているのは何かを探しているということだけだ。それだけが、その人にとっては頼みの綱だった。もしもそれすらも失われてしまえば、その人は何もわからなくなってしまうのだ。それにすがるかのように、その人は探した。なにかを。
 その人は歩き続けた。探しながら歩き続けた。それが見つかるのかどうかはその人にもわからなかった。何を探しているのかわからないのに、見つけられるのか、その人にもわからなかった。しかしながら、その人は確信のようなものを持っていた。
「それが見つけられれば、それを探していたことがわかるのだろう」
 その人はそう信じていた。信じてすらいなかった。ただそうあるのだと感じていた。感じてすらいなかった。すべては茫漠としていた。感覚という感覚が無いという感覚もその人には無かった。歩き続けていてもちっとも疲れない。足が痛むことも無い。眠たくなることも、空腹に身もだえることも無い。寒さに震えることも、うだるような日差しに焼かれることもなんとも思わない。誰かを人恋しく思うことも、孤独に苛まれることも無い。ただそこにあり、探していた。探していて、探しているものが見つかれば、すべてがわかるのだと、その人は思うということも無く知っていた。
 その探しているものはなかなか見つからなかった。歩き続け、ほうぼうを探して、どんな些細な隙間や、物陰、草むら、岩の陰、手当たり次第に探した。それでも見つからない。日は巡り、太陽が中天に昇ったかと思うと、あっという間にそれは傾き、空は茜色に染まり、夜の帳が降り、満点の星空を見上げ、月が満ち欠けし、気づくと朝日が昇る。それを幾度繰り返したのだろう。それは律義に規則正しく何度も何度も繰り返し、一度たりとも過つことがないのを、その人は見ていた。そうして、それを見ながら探した。
 探し歩きながら、その人は多くの町を訪れた。どの町も、その人の知らない町ばかりだった。町に入るたびに、その人の胸には淡い期待が湧いてくる。自分の知っている町なのではないか。あるいは、誰か自分のことを知っている人のいる町なのではないか。もしそんな人がいれば、その人が教えてくれるかもしれない。
「ああ、あなたの探しているものなら、あれでしょう」
 しかし、そんな淡い期待はすぐに軽い失望に変わる。どの町もその人の知らない町であり、その人を知る人のいない町だからだ。そこに入った瞬間に、その人には理解できた。そこが自分のいるべき場所ではなく、自分がよそ者であることが。その町の中を、その人は歩き続けた。すれ違う人は、その人に目もくれない。探すものは見つからない。
 それでも、その人は探すのをやめなかった。やめられるはずがあろうか。それはその人にとって唯一の知っていることであり、存在理由だからだ。探すのをやめてどうしたらいい?どこに帰るというのか?何をすればいいのか?そこには空虚な穴がポッカリ口を開けている。それに飲み込まれたら、どうなってしまうのか。それでもいいのかもしれない。その方が、楽なのかもしれない。疲労も、眠気も、空腹も感じなくとも、その人は次第に摩耗していった。心がすり減って行っていた。心のようなものが。
 ある晩、その人は、ついに膝をついた。大地にその膝をつき、倒れ込んだ。歩みを止めた。波の音がする。夜の海から、風が吹いてくる。その風を頬に感じ、その人は立ち上がった。最後の力を振り絞って立ち上がった。そして、波打ち際に歩いていく。足首を波が洗う。足を止める。足元をじっと見つめる。
「あった」
 そこにあったのは、その人の死体だった。死体だったものと言った方が正確かもしれない。いや、どんなに時がたっていようが、それはそれなのかもしれない。
 それを見た瞬間、その人はすべてのことがわかった。自分がもう死んでしまっていること。自分が何者なのか。どこの誰なのか。どんな人生を歩み、どんな喜びを得、後悔を抱え、どんなやさしさと、醜さを持った人間だったのか。誰を愛し、誰に愛されたのか。
 その人は夜の海の果て、風の吹いてくる方を見た。悲しむべきだろうか。悲しいことではあるだろう。
 その人は温もりを感じ、そっと目を閉じた。


No.472


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