見出し画像

虎と兎

 草原のど真ん中に無防備にたたずむ兎を見つけた虎は足音を忍ばせ近づいた。兎は虎が徐々に間合いを詰めていることにまるで気づかない様子で、耳を澄まして辺りを見渡すようなこともしない。兎との距離が充分に縮まると、虎は大きな口を開けて兎に飛び掛かった。そして、その牙がまさに兎に突き立てられようとした瞬間、兎が何か言ったので、虎は驚いて噛み付くのをやめてしまった。
「なんと言った?」と虎は兎に尋ねた。
「虚しいな」と兎は言った。
「なんだそれは?」虎は言った。「命乞いなら聞く耳持たんぞ。おれは今腹を空かしているのだ。お前がなんと言おうと、おれはお前を食う」
「なんのために?」兎はため息をついた。「命乞いなどするつもりはない。しかし、わたしはお前さんに問いたいのだ。なんのために食うのだ?」
「それは」と虎は答えた。「腹が空いているからだ。この空腹を満たさなければ、おれは死んでしまう」
 兎はため息をついた。「腹を満たしたところで、お前さんはいつか必ず死ぬのだ。それなのに、なぜ食う?」
「おれは確かにいつか死ぬかもしれんが、食って生き、子を残せば、その子がまた子を産み、そうしておれの血は受け継がれていくだろう。そのために、お前を食うのだ」虎は言った。
 兎はため息をついた。虎は怒った。「ため息をつくな。頭に来る。いますぐに食ってやるぞ」
 兎はまたため息をついた。「子が子を産み、またその子が子を産む。それで?」
「それでとはなんだ?」
「それで、それからどうなる?」と兎は尋ねた。
「それが永遠に続くのだ」と虎は答えた。「おれの血が永遠に続いていく。そのために、おれはお前を食わなければならない」
 兎は鼻で笑った。虎はそれを見て唸った。兎は言った。「永遠?お前さんは永遠を知っているのかい?」
「知っているとも」虎は口を大きく開けて吼えた。「無限に、限り無く続くのだ」
「ほお」と兎は笑みを浮かべた。「では、無限とはなんだ?」
 虎は黙り込んだ。そして、しばらくして答えた。「限りの無いことだ」
 兎は尋ねた。「お前さんはそれの何を知っている?」
「おれは答えたぞ」虎は吼えたが、そこには威厳も威圧感も無かった。「永遠も、無限も、おれは知っている」
「お前さんは何も知らんよ」兎は低いよく通る声で言った。虎は息を呑んだ。「限りある存在のお前さんには、永遠も無限も語り得ない。何も知り得ない。せいぜい知ったつもりになれるくらいさ。なあ、虚しくないか?」
「それならば」と虎は言った。「お前も同じだ。お前も限りある存在で、そしてその存在もいま失われようとしている」
「ああ」と兎は息を漏らすような声で答えた。「わたしは虚しい。草を食むことが、子を産み育てることが、生きることが、存在することが。一切は無限の前には儚く虚しい。わたしはお前さんに食われるよりも先に、虚無に飲み込まれているのだ」
 巨体に似つかわしくない俊敏さで飛びかかると、虎は兎を一口に平らげた。兎は悲鳴を上げることもできなかった。どのみち兎は悲鳴など上げなかったかもしれないが。
「確かに虚しいな」虎は呟いた。


No.212


兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?