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ラッパ吹き

「音楽というものがこの世に存在しなかったら」と男は思う。「おれはとっくにくたばっていただろう」
 それは真実だった。男はラッパを吹いて口に糊した。音楽以外には何もできない男だった。勉強はからきしで九九もあやしい有様だったし、運動神経はゼロ、走る姿だけで笑いものになった。家は貧乏で、酒飲みの親父と、その親父といつも喧嘩ばかりしている母親、そのどちらをも、男は嫌悪した。すべてが最悪だった。きっと自分はどこかで野垂れ死ぬのだと、子どもながらに妙な観念をしているのが少年時代の男だった。
 男がラッパに出会ったのは、まだ少年のころ、飲んだくれの親父を探しに行った歓楽街でのことだった。
 ソファにもたれかかった父親が力なかったのは、酩酊状態だったからか、それとも殴られたからなのかはわからなかった。鼻から溢れるほど血を流しながら、ぐったりしている父親。そのまま死ぬのなら死ねばいいと、少年だった男は思った。
「君の親父さんは」とシワひとつない背広の男は言った。「勘定が払えないんだとさ。どう思うね、君」
 少年だった男は黙っていた。死ねばいいと思ったが、そう言ったら本当に彼らは親父を殺すだろう。男は逡巡した。だから黙っていた。背広の男は目の前の少年は怯えているので黙っていると思っただろう。
 背広の男は少年だった男の顔を覗き込んだ。そして、トランペットを差し出したのだ。「もし、お前がこれを吹いて、音がちゃんと出せたら許してやるよ」背広の男は言った。おそらく、ちょっとした余興、退屈しのぎ。貧乏なガキだ、ラッパになど触れたことはないだろう、と見積もっていたのだろう。トランペットは音を出すのが難しい。少年には音が出せないと思ったのだろうし、万が一音が出ても難癖をつける腹積もりだったに違いない。
 少年だった男は、差し出されたトランペットに触れた瞬間驚いた。それは手に吸い付くようで、失くしていた体の一部に再会したような感覚だった。マウスピースに口を当てる。それは呼吸よりも自然な行為だった。そして、空気を吹き込む。
 その一音は、その一音だけで聴く者の心を打ち抜くような破壊力を持っていた。男と父親は放免されることになる。
 それが見つけた瞬間だったのだ。男が音楽を見つけたのではない。音楽が男を見つけたのだ。音楽が探し求めていた男を。
 その奏でる音楽は人々を身震いさせた。悪魔のひとことよりも致命的で、天使のそれよりも人を慰撫した。男は音楽に愛された。音楽によって生かされた。半面、音楽があったからこそ、男は身を滅ぼしたのかもしれない。ラッパ以外に男は興味をもたなかった。いや、酒とドラッグもだ。音楽、酒、ドラッグ。それ以外に、男は何にも興味をもたなかった。 演奏すれば簡単に金が手に入り、それは酒とドラックに化けた。
「あたし、不幸になりたいの」その女は男の耳元で囁いた。
「それならおれがうってつけだぜ」男は言った。二人は恋に落ちた。
 恋に落ちても男の生活は変わらなかった。酒とドラッグのために演奏をした。男は引っ張りだこだった。ラッパは打出の小槌のようなものだ。それを鳴らせば、金が現れた。 そして、それは酒とドラッグになる。
 それが酒であれドラッグであれ酩酊した男は女を殴った。女は嘲笑った。不幸にならない女を見て男はさらに女を殴った。幸福ですらない女に我慢ならなかった。そしてまた殴った。女は男を鼻で笑った。止めどなく血の溢れる鼻で。
 しばらくして、男はドラッグの過剰摂取で死んだ。女は泣いて、手首を切った。

No.91

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