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真夏の、ある朝

 男が部屋に飛び込んできた。女は身構えた。真夏の、ある朝のことだ。
 その朝は良く晴れていた。セミはすでに鳴き始めていて、うだるような暑い空気がねっとりと体にまとわりついた。女は汗で湿った浴衣を脱ごうとしていた。
 女が身構えたのは、そうして着替えの最中だったからというのもあるが、女と男のその時点の関係がひどくもつれたものになっていたからだった。女自身も、男にどうしてもらいたいのか、男をどう扱いたいのか、わからない関係だ。グチャグチャにもつれ、どの糸を引っ張っても状況は悪化するしかなく、かと言ってそれをうっちゃっておけるかと言えばそれもしがたいような、そんな関係。
 男はまっすぐに女に向かって歩いてきた。まるで女の存在に気づいていないかというような勢いで、そして、女の目の前で立ち止まり、女の手首をつかむ。
「なによ!」女はその手を振り払おうとするが、男はかなりの力で女の手首を握っていて、それを許さない。「痛い!やめてよ!」
「来るんだ」男は言った。「さっさとしろ!」
「いったい何なのよ!やめて」女は叫び、そして男の手に噛みついた。男はそれを振り払い、女を突き飛ばす。浴衣が乱れ、女の太ももが露わになる。白く、つややかなももだ。男の手からは血が流れていた。
「いったい何なの?教えてよ」女は荒い息を吐きながら言った。「あんたはいつもそう。何にも言わないで『右へ行け』、『左へ行け』。あれこれ指図してたかと思えば急にいなくなって、同じように急に帰ってきて。バカにしないでよ!あたしはあんたの犬じゃないんだ。どういう理由があってそうしろっていうのか、ちゃんと教えてちょうだい」
 男は黙っている。時計を見て、窓の外から空を見る。
「いつもそうよ。あたしの話なんてまともに聞いてないんだ。ホント頭にくる。イヤだからね。あんたの指図になんて金輪際従わない。さようなら。出て行って。もう二度とここに来ないで」
 男は女の腕をつかみ、立ち上がらせる。「一緒に来るんだ」
「イヤだって言ってるだろ!」そして、また男の手を振り払おうとする。今度はそれをやりおおせるが、それは男がその手から力を抜いたからだった。
「時間が無い。ここにいると死ぬことになる。俺も、お前も」男は声を潜めそう言った。
「なにを言っているの?」女は男の顔を覗き込む。
「早くしろ」
「なにを言っているのか聞いてるの。あなたは何者なの?なにを知っているの?」
「この街は消える」男はそう言って、息を吐いた。「言えるのはこれだけだ。本当はこれも言えないことだ。俺が何者でなにを知っているかはどうでもいいだろ。さあ、早くしろ」
「スパイなの?」
「早くしろ」男はもう一度時計を見て、窓から身を乗り出し、空を見る。
「本当のことを言ってよ」女は男の体を両手でつかみ、引っ張って自分の方を向かせる。
「お前を愛してる」男は女を見つめて言う。
「冗談でしょう?」
「早くしろ」
「私も愛してる」
「ああ、わかった。早くしろ」
「冗談よ」
「冗談でも何でもいい。死にたくなかったら早くしろ」
 遠くでサイレンの音がする。空襲警報。「こんな朝っぱらから?」と女は言い、「くそっ!」と男は吐き捨てる。
 真夏の、ある朝のこと。


No.371


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