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彼女の美貌は

 彼女は生まれつき目が見えなかった。あるいはその事実は彼女が不幸だったと思わせるかもしれないが、彼女としては生まれつき目が見えなかったわけで、彼女にはそれが幸せなことなのか、不幸せなことなのかはわからなかった。たいていの人はそれが不幸なことだと彼女に言ったわけだけれど。
 彼女にとっては、それはおそらく、どちらでもないのだろう。幸でも不幸でもない。確かに、生活をする上での多少の、少なからぬ不便はあったが、それは仕方のないことなのだろう、と彼女は思った。
「確かにわたしは目が見えないけれど、あなたはあなたが鳥みたいに空を飛べないことを嘆いたりする?」
 誰でも、その限界が設けられており、その限られた範囲の中で生きているのだ。彼女はそのことを理解していたし、そのこと、彼女の目が光を捉えないということが、彼女の人間性を毀損するようなものでもないことをわかっていた。
 幼い頃の彼女は、周囲の人間も自分と同じような世界で生きているものだと思っていた。つまり、目の見えない世界である。誰もが光の無い世界を生き、自分が赤や青を理解できないのは、まだ経験が少ないために、それがわからないのだと思っていた。自分以外の人々は経験的に色や形について知ったのだと、彼女は考えたのだ。もちろん、歳を重ねても彼女はそれを知らない。生まれつき目が見えなかった彼女は、成長しても目が見えない彼女が、それを見ることはないかれだ。確かに、彼女は青空は青いということは理解するようになったし、海が青いということも理解するようになった。夕日が赤いということも理解するようになった。しかし、彼女は青を知らないし、赤も知らない。あるいは、彼女は彼女の中にだけある青を持ち、赤を持ち、彼女以外の誰もその色を知らない。なぜなら、それは彼女の中にだけあるものだからだ。
 もしも彼女が赤について尋ねられれば「夕日みたいな色でしょ」と答えるだろう。正解。しかし、それは彼女の中の赤を説明したことにはならない。彼女の赤は彼女の中にしかないから。
 彼女はその容姿を誉められることが多かった。
「君は綺麗な顔をしてるね」
「そう?」と彼女は微笑む。
 事実として、彼女は美しかった。一般的に言って美しいとされる顔立ちをしていた。もし十人の人に彼女の容姿について尋ねたら、間違いなく九人は美しいと答えるだろう。そんな顔だ。美しい額をしていたし、美しい鼻梁を持っていた。その光を捉えない目は、深く底の見えない泉のような、吸い込むような力を持っていた。
「ああ、とても美しい」
 当然、彼女に言い寄る男も多かった。
「君はそれを知らないだろうけど」
 男たちはそう言った。
「どうかしら?」と彼女は微笑む。
 彼女は毎朝顔を洗う時に、自分の顔を子細に触った。額を撫で、鼻梁を指先で触れ、頬を手のひらで包む。彼女はそれを知っていた。誰よりも知り尽くしていたと言ってもいいだろう。もし彼女に粘土を与え、自分の顔を作ってみろといえば、おそらく、かなり完成度の高いものを拵えるに違いない。そして、彼女はそれを愛した。指先で知るそれを愛した。誰よりも愛した。それは誰かに美しいと言われるまでもなく美しかった。何かと比べられることもなければ、代替可能でもない、絶対的な美しさ。
「わたしは誰よりもわたしを知っているわ」
 歳をとった彼女は、若い頃ほど人に美しいとは言われなくなったが、彼女はそれでも自分が美しいことを知っていた。
 彼女だけの赤、彼女の美貌は彼女だけのもの。

No.356

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