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エイリアンズⅢ

 なんだか宇宙人の中に放り込まれたみたいな気分だった。違う、自分が宇宙人みたいになったみたいな気分だ。
 彼はクラスの嫌われ者だった。いつも汚らしくて、絶対に誰にもなつかない野良犬みたいだった。男子は「バイキン」と彼を呼んだし、女子は「あいつが来るとわたし、息止めてるの」と言って笑い合ったりしていた。わたしもその輪の中にいたら、一緒に笑おうとするのだけれど、確かに彼の着ているTシャツはよれよれだけど、ちゃんと柔軟剤の匂いがすることを、わたしは知っていた。
 誰もいない夕方の公園で、わたしは彼に鉄棒の逆上がりの仕方を教えてもらったのだった。逆上がりのできなかったわたしは、目前に迫った学校での逆上がりのテストで恥をかくかどうかの瀬戸際にいた。実際のところ、半分諦めていたと言っても過言ではない。頭の片隅にはどう嘘をついて、当日その体育の授業を見学にするかを考えていたのだ。それが、それまでいくら頑張ってもできなかった逆上がりが、彼の一言でいとも簡単にできてしまったのだ。
「できた」としか、ぐるりと世界を回転させて地面に降り立ったわたしは言えなかった。大袈裟だけど、宇宙旅行をして地球に還ってきた宇宙飛行士みたいな気分だった。彼は笑顔でそれを見ていた。
「な、簡単だろ?」彼がそんな顔をするなんて、それまで全然知らなかった。教室ではいつもブスっとしてて、無表情で、なにを考えてるかわからない宇宙人みたいだったから。そんな彼がわたしに笑いかけている。わたしがそれに不器用な笑顔を返そうとした、その時、彼の顔がパッと明るくなった。本当にどこからか光が当てられたみたいに。
「母ちゃん!」と、彼は叫ぶと同時に駆け出していて、わたしの脇を駆け抜ける時、柔軟剤のいい匂いがして、彼はあっという間に公園の入り口に辿り着いていた。そこには女の人が立っていた。彼のお母さんなのだろう。優しそうな人だ。時計を見ると、塾の時間が迫っていた。わたしは慌てて自転車に乗ると、彼のお母さんに会釈だけしてその場をあとにした。子犬が母犬にじゃれつくみたいに、お母さんの体に自分の体を預けながら歩いている彼を、その時わたしは見たのだった。
「あいつが来るとわたし、息止めてるの」と言ってみんな笑っているのに、わたしが笑わずにいると「どうしたの?」みたいな感じでみんなが私を見てくる。わたしは無理に笑って、彼と、彼のTシャツを洗う優しいお母さんのことを考える。
 わたしは宇宙人みたいな気分だった。違う星に降り立った宇宙人。
 わたしは勉強もできたし、家もそこそこお金持ちだったし、クラス委員を任されるくらいには先生にも信頼されてたから、女子の輪の中ではいつも真ん中あたりにいたけれど、そこの居心地が良かったかと言えばそうでもない。本当はビクビクしていた。いつそこを追い出されるか。少し失敗したら、馬鹿にされて蹴落とされるんじゃないか。逆に、誰かが失敗すれば、わたしも同情するふりをしてその子を馬鹿にしたと思う。だからこそ、それがとても怖かった。算数のテストで悪い点を取らないように、国語の時間、教科書の漢字を間違えて読まないように、逆上がりのテストで逆上がりができないことがバレないように。失敗しないように、可哀そうと思われないように、同情されないように、そこには憐れみと嘲りが同居しているから。
 それはわたしにとっては唐突な事態だった。車にはねられるみたいな、いや、どこかから隕石が降ってくるみたいな。
 ママとパパが離婚することになった。パパは仕事から帰ってくるのが遅くて、ママはいつもイライラしてて、晩御飯を作りながらお酒を飲んで、パパはパパでお酒を飲んで帰ってきて、真夜中に大喧嘩をする。そんなことが何度もあって、パパが帰ってこないようなことも何度もあったから、いや、それでも、わたしの頭の中にはふたりが離婚する、別々になるなんてことはこれっぽっちも無かった。それは別々になれるものとわたしには思えていなかったからだ。それはひとつながりのもの、縫い目なんて無くて、元々ひとつのものだと、わたしは思い込んでいた。それはそうだろう。わたしが生まれた時から、パパとママはいて、それが別々のものだなんてのは想像できなかった。
「パパと暮らす?ママと暮らす?」ドラマの中でしか耳にすることのないと思っていたセリフ、これでわたしは可哀そうな子だ。
 それまで、幼いながらに描いていた未来がぷっつりと断ち切られた気分だった。普通の生活、普通の家族、普通の未来、普通って何?それはおいても、その先の自分の生活がどうなるのか、まったくわからなかった。転校することになるのだろうか?いじめられたりしない?
「どうして転校してきたの?」
「親が離婚して」
「え?」
 完全に可哀そうな子だ。そんなのイヤだ。
「どうして転校してきたの?」
「えっと、いろいろあって」
「ねえ、あの転校生、なんか感じ悪くない?わたしたちに言えないことがあるんだよ」
 わたしは不安で不安で仕方がなかった。誰かに話せれば良かったけど、思い浮かぶクラスメイトの誰にも言えないように思えた。完全に可哀そうな子にされてしまう。わたしはそれが認められなかった。そうして、頭の中に浮かんできたのがあの顔だった。わたしが初めて逆上がりをした時の笑顔、わたしが逆上がりができないのがバレてもバカにしなかった顔。
 翌日の夕方、わたしは塾に行くのにいつもより早い時刻に出た。そして、あの彼のいる公園に向かったのだ。彼はそこにいるはずだ。たぶん、お母さんの帰りをあの公園で待っているんだ。自転車を漕ぎながら、わたしの頭の中ではいくつもの想定問答が渦巻いていた。できるだけ憐れにならないように、みすぼらしくならないように、どうってことないんだけど、ちょっと話してみただけ、って見えるように。
 鉄棒に近づくと、やっぱり彼は現れた。
「また逆上がりするのか?」と、彼はわたしに近づいて来ながら言って、わたしは自分の胸の中からなにかが込み上げてくるのがわかって、流れ出てからそれが涙と嗚咽だとわかった。彼は驚いてはいたけど、すぐにその驚きもどっかに行ったみたいだった。わたしを嘲ったり、憐れんだり、馬鹿にしたりしていなかった。涙は次から次へと溢れた。どうにか止めようとしたけど、止められなかった。
「もう、こんなところに、いたくない」と、わたしの胸から涙に濡れた言葉がもれた。
 彼はわたしの手をギュッと握った。






No.199

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