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サヨナラ、未来

 むかし、まだぼくが学生だったころに住んでいたアパートが取り壊されていた。わざわざ様子を見に行ったわけではない。たまたま仕事でその近くに行くことになり、まさにぼくの住んでいたアパートの前を通り掛かることになったのだ。町並みもすっかり変わってしまっていた。ぼくが学生時代を過ごした町。たいした思い入れもないと思っていたのに、こうして時をへてから来てみると意外にも感慨深い。あのパン屋が無くなっているとか、この更地は何があったんだっけとか、そんなことを考えながら歩いていた。そして、昔ぼくが住んでいたアパートの前に差し掛かった。そこには真新しいマンションが建っていた。ベランダの感じからすると、たぶん、単身者向けのマンションだ。寂しかったかと聞かれたら、ぼくは何と答えるだろう。
「まあ、そんなものだよね」あたりが順当ではなかろうか。まあ、そんなものだ。あれからもう何年もたっているし、そもそもぼくの住んでいた頃からしてボロボロのアパートで、いつ崩れてもおかしくないような建物だったのだ。台風が来るたびに、風になぎ倒されやしまいかひやひやしたものだ。それがまだそこに残っていたとしたら奇跡だ。
 それでも、一抹の寂しさも無かったと言えばウソになる。
 ぼくが住んでいたあのアパートはもうない。あのオンボロアパート。あの頃、付き合っていた女の子と一緒に住んでいたアパート。
「たぶん、わたしたちは」と、彼女は言ったのだった。「たぶん」
 暑い頃で、ぼくらは半裸でねっころがっていた。冷房なんて無かったし、扇風機も壊れてしまって、団扇で互いをあおいでどうにかその夏をやり過ごそうと頑張っていた。ぼくも彼女も学校に行かなければならなかったけれど、そんなものは存在しないかのように振る舞っていた。存在しないかのように振る舞えば、存在しなくなると信じるみたいに。若いっていうのはそんな感じだ。住宅ローンも、学資保険も、聞いたこともなければ、見たこともない。ましてやその存在を信じることもしなかったころのこと。むかしむかし、で始まる話。
「未来について考える?」
「過去のことばかり考えてちゃダメさ」
「未来だよ」
「それって過去とどう違うの?」
「バカみたい」
「未来について考えた方がいい?」
「クソくらえだと思う」
「同感」
 ぼくらは永遠に現在が続くと信じていた。いや、信じるふりをしていた。ぼくも、彼女も。ぼくは未来に怯えていたし、彼女は過去に縛られやしないかと不安に思っていた。そんな感じ。
 ぼくらは並んでいたのに、違う方向を見ていたのだろうと思う。こうして振り返るとそれを言葉にできるけど、その時にはそれができなかった。もちろん、どこかでわかってはいたけど。まあ、そういうことだ。だから、ほどなくして別れた。もしかしたら、別にそれが理由じゃなかったのかもしれないけれど。
 まあ、それはいい。
 悲しくなかったと言えばウソになるかもしれないけれど、どこかで納得する部分もあった。たいていの別れはそういうものだろう。
 さよなら、未来。こんにちは、絶望の日常。
 アパートのあった空間をひとしきり見て、ぼくはそこを立ち去った。行かなければならない場所があって、そこに行かなければならなかったからだ。いま、ぼくはそうして生きているのだ。
 アパートの窓から、あの頃のぼくと彼女が外にいるいまのぼくを覗いているのを想像した。ぼくと、ぼくの目が合う。ぼくはぼくのことをどう思うだろう。こんな風にはなりたくないな、とでも思うだろうか。好きにすればいい。そういうものだ。
 彼女は?わからない。彼女はいなくて、もう二度と会うことも無いだろう。
 無くなったアパートのことを、あのパン屋のことを、あの更地のことを、ぼくは誰にも話せない。それが、ぼくの得たものなのだ。


No.485


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