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春を待ちながら

 彼は立っていることを命じられたのだった。いまとなっては、それがなにかの罰だったのか、それとも単なる理不尽な命令だったのかはわからない。あまりにも長い時間が流れてしまった。彼はいつから立っているのかすら忘れてしまったのだ。なぜ立っているのかなど覚えているはずがない。
 灼熱の太陽が照りつける。焼けるような陽射し。陽炎が大地を揺らす。蝉しぐれが降り注ぐ。自分の作る影が驚くほど黒いのを驚きながら見ている。真っ黒に日焼けした子どもたちが歓声を上げながら駆け抜けて行った。太陽は彼を焼く。それでも彼は立っている。
 土砂降りの雨が地面を叩きつけた。大粒の雨は暴力的と言ってもいいほとだ。雨粒の音が辺りを満たす。雨は川を溢れさせるだろう。その流れは人々の生活を流し去ってしまうかもしれない。そして、もちろん、雨は彼にも降り注ぐ。彼はずぶ濡れになる。それでも彼は立っている。
 強い風が吹く。すべてをなぎ倒そうとでもいうかのような強い風だ。北の果て、北極から吹き降りてくる風。轟々と唸りを上げるそれは、あるいは本当に物や人をなぎ倒す。家々の屋根を吹き飛ばし、木々から枝をもぎ取り、木々自体もなぎ倒す。彼は大地に強く踏ん張る。倒されないように。倒れないように。そんな彼に風が吹き付ける。それでも彼は立っている。
 雪が降る。それは音もなく降る。それが定めであるかのように、雪は降り積もる。世界を真っ白に染める。際限無く雪は降る。朝も昼も夜も。すべてを埋めてしまおうというかのように。それは彼の上にも降り積もる。しんしんと、淡々と降り積もる。それでも彼は立っている。
 こうして彼は立ち続けた。幾度となく太陽に焼かれ、幾度となく土砂降りの雨に打たれ、幾度となく風に煽られ、幾度となく雪に降り積もられた。それでも彼は立ち続けた。そうしているうちに、彼はこう考えるようになった。自分はなにかを待っているのだと。そこでそうして立ち続けているのは、なにかを待っているためなのだと。その考えが彼を慰めたかどうかはわからない。あるいは、あまりにも長く立ち続けたために、それ以外のことを考えられなくなっていたのではないだろうか。彼は立ち続けた。ただただ立ち続けた。
 どれだけの時間がたったのだろう。それは誰にも、彼自身にもわからない。長い時間だ。長い時間をへて、彼は自分の身のうちになにかを感じた。それは強い力だった。とても強い力だ。いや、最初は些細で小さな力だった。いや、最初からそれは強い力を、その萌芽を持っていた。強い力になる予感を持っていた。それは徐々に大きくなっていった。大きくなり、大きくなり、破裂してしまいそうだった。
 そして彼は気づいた。自分が木であることに。彼は一本の木だった。いつから?最初から。そして、彼は自分が春を待っていることを悟った。春を待っていたのだ。太陽に焼かれても、雨に打たれても、風に吹かれても、雪に降り積もられても、いつも春を待っていた。だから、立っていられた。そして、その春が来たのだ。
 花。満開の花。春が来た。
 

No.121

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