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HELLO! NEW WORLD

 そこは新しい世界だった。
「ようこそ、新しい世界へ」と、そこで出迎えてくれた男の人、背がすらっと高く、目鼻立ちの整った人は言った。「さあ、どうぞ」と、わたしの腰に手を回し、進むように促す。それはとても自然な仕草だったので、わたしは言いなりになって従った。もしかしたら、それが目鼻立ちの整ったすらっと背の高い人だったというのも後押ししたかもしれないけれど。
「新しい世界?」わたしは尋ねた。
「そう、新しい世界」男の人は微笑む。「なにからなにまで新しい世界」
 実際そこは新しい世界だった。本当になにからなにまで新しい。新しい服、新しい靴、新しい髪型に、新しいカバン、新しい車が駆け巡り、新しい電車が走る。新しい高層ビルが立ち並び、そこを行き交うのは新しい人々、新しい仕事や、新しい遊び、新しい映画、新しいミュージシャン、新しい芸術家に、新しい舞台、新しいお芝居、新しい文化。新しい科学技術が、新しいものを作り出し、新しい街ができる。
「どこへ行くの?」わたしは尋ねる。
 男の人は微笑む。「もっともっと見てみよう」そしてわたしは手を引かれて行く。
 新しい犯罪で新しい苦しみが生まれ、新しい兵器で新しい戦争が起きる。新しい悪がはびこり、新しい支配者が現れ、新しい奴隷が生まれる。新しい恐怖、新しい不正、新しい悪夢。新しい正義。新しい未来。わたしは怖くなってきた。
「帰りたい」と、わたしは言う。「帰りたい。帰らなきゃ」
 男の人は悲しそうに、それでも微笑みは崩さずに首を横に振った。「それはできないよ」
「なぜ?」わたしが尋ねると、振り返るように促された。そこには断絶があった。深い深い断絶で、落ちたらひとたまりもないだろうし、とてもではないが飛び越えることもできなさそうだ。
「こんなところに断絶があるなんて知らなかった」わたしは言った。
「君がいた場所にはもう戻れない」男の人は言った。
「橋を掛けて!」わたしは叫んだ。
「無理だ」男の人は首を横に振った。
 わたしはその場にへたりこんだ。立ち上がろうにも足に、いや、それどころか体に力が入らない。目はなにかを見るのをやめ、わたしはぼんやりと一点を見つめる。頭の中にはひとつの言葉だけが充満し、それが渦巻いている。「戻れない。戻れない」
「どうして?」わたしは絞り出した。「どうしてこんなことに?」
 男の人は、口元は相変わらず微笑みのまま、眉をよせ、困ったような顔をした。「理由なんてないんだ。どうしてもこうしてもない。君は新しい世界に来た。それだけだ」
「こんなの望んでない」
「望むも望まないも関係無い。君がなにを望もうと、なにをしようと、こうなった。そういうものだ」
 地鳴りを上げながら、断絶が開いていく。それはまるで傷をえぐられ悲鳴を上げているようだ。もしかしたら、わたしが悲鳴を上げているのかもしれない。奪われてしまったもの。それまでの日常、日常、日常、退屈で、永遠みたいに思えた日常、好きでも嫌いでもなかった日常、ただそこにあるだけみたいだった日常、それまで、それから。すべて奪われる。それまでの未来。それまでの世界。波にさらわれるみたいに。わたしは無力だ。
「ねえ」と、わたしは言った。
「なに?」男の人はもう微笑んでいなかった。
「わたしの悲しみは、新しい悲しみ?」



No.108

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