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彼女は喋れない

 大学出で、これといった実績もなく将校になったわたしの評判は、特に現場で叩き上げの連中にすこぶる悪かった。もちろん、その辺りを勘案して彼らに接することさえすれば、それなりに良好な関係が作れたかもしれないが、こちらはこちらで彼らのことを学の無い連中とはなから馬鹿にしていたものだから、自然と態度も横柄になる。我々は同じオフィスを使おうとも、本質的に相容れないのであった。その摩擦は些細なことで顕在化し、それが本格的な面倒にまで膨らんでいくこともしばしばだったが、責任転嫁の連続で改善されることはなかった。
 その点、占領下の人々とわたしの関係は良好と言えたと、わたしには思える。彼らとわたしの間には明確で動かしがたい格差があったからだ。わたしは戦勝国からやって来た偉い将校であり、彼らは敗戦国の、あるいは言葉を選ぶべきかもしれないが、わたしたちにとっては召し使いに等しい存在だった。その意識は、わたしやわたしの同僚のみならず、彼ら、敗戦国の人々の中にもあったのだ。彼らはわたしたちに進んでかしずき、その全身で恭順の意を示した。これは実際のところ驚くべきとことであった。我々はそれまで激しい戦闘を繰り広げてきたのだ。彼らは、我々のことを鬼畜だと教え込まれていた。我々にしても、大差ない。その鬼畜である相手側の人間がやって来て、たとえ国家としては全面的な降伏をしていたとしても、そこに住まう人々が心情的にそれに簡単に従うことなどできはしないと考えていたからだ。事実、故郷を離れ、そこに赴く時には、わたしの周りの人々、特にわたしの母などは、ひどくわたしの身を案じていたのだ。
「大丈夫なのかい?なにか、悪いことが起こりやしないかい?」と、出発する寸前になっても母は言っていた。
「大丈夫さ」と、わたしは努めて明るく言った。「戦争は終わったんだよ。連中だって、もうこれ以上殺し合いはしたくないだろう」
 ゲリラや抵抗勢力が良からぬことを企み、それに巻き込まれるのではないかと、わたし自身内心不安ではあった。その不安を抱えたまま、わたしはその国の、焼野原に立った。そこを焼野原にしたのは他でもないわたしたちなのだ。それは恨まれもしよう。
 しかし、蓋を開けてみれば呆気のないもので、占領軍の統治は実に順調に進んだのだった。そこの人々はまるでそこが焼野原になったのは空から神が火を降らせたためであるとでもいったような感じで、わたしたちを恨むそぶりを見せなかった。わたしの日々は穏やかだった。もちろん、それなりに多忙ではあったが、それは心地の良い多忙だった。部下たちとの関係を除けば、わたしのそこでの生活は穏やかそのものだった。
 ある酒場を訪れた時のことである。そこは将校専用の高級な店で、店員たちや、接客をしてくれる女たちの質も実に高かった。店の中央にはピアノが鎮座し、生演奏を楽しめた。
 その晩、ステージに上がったのは小娘だった。占領されているその国の人々は概ね貧相で、実年齢よりも若く見えることもしばしばだったから、小娘に見えてもわたしと大して変わらない年齢だったかもしれない。赤いドレスはカーテンを巻いたようで、胸は貧相で小娘としか言いようがない。わたしは期待せずに彼女の歌声を待った。
 結果から言えば、わたしは彼女の歌声に感動し、涙さえ流した。それはわたしの祖母の故郷の唄だった。わたしがまだ幼い頃、祖母の歌ってくれた唄だ。故郷を思い涙する唄。祖母は移民で、苦労を重ねた人だったから、その唄を歌いながらよく涙を流していたものだ。そして、同じ唄がまたわたしの涙を流させたのだった。彼女の歌声は完璧だった。その国の人々は、わたしたちの言語を話せないものばかりだったし、話せたてしても酷い発音で何を言っているのか二度三度聞き直さなければならないことさえあったのだが、彼女のそれは完璧だったのだ。
 拍手を浴びながらステージを降りる彼女をわたしは追った。そして、ステージ裏で捕まえ、わたしはわたしの感動を彼女に伝えようとした。ところが、わたしが話し掛けても彼女はキョトンとするばかりだ。まるで耳の聞こえない人が話し掛けられているように。そこに他の店員がやって来た。彼女はその店員に、その国の言語で何かを言った。店員もそれに対して何か言った。そして、店員はわたしに向き直り「彼女が何か失礼をしましたか」と酷い発音で言った。
「いや」と、わたしは答えた。「彼女は喋れないのか?」
「はい」
「完璧な唄だった。発音だって完璧だ」
 店員は彼女に何かを言った。彼女が答える。
「レコードを、何度も何度も聞いて覚えたそうです」
 わたしは彼女を見、そして微笑んで見せた。彼女ははにかむように笑みを浮かべた。


No.490


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