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列車は北に向かう

 妻が窓側の席に座りたいと言ったので、ぼくはこころよくそれを譲ってあげた。いくらなんでも、大人気ないぼくだってそのくらいは大人である。確かに車窓は見たい。車窓を流れていく風景を眺めるのは列車の旅の醍醐味だと思う。それをかぶりつきで眺められる窓側の席はやっぱり特等席だ。とはいえ、通路側であってもそれなりに、妻の頭越しにはなるとは言え見えるし、トイレに立つのもこちらの方が楽ではある。尿意を催すたびに妻に侘びながら席を立つのは嫌だし、もちろん、そんなことで機嫌を損ねる妻ではないけれど、それでも少し申し訳ないような気もするし、そうすると尿意を催さないようにしようと思い、そう思うと逆に気になって尿意を催しているような気がしてくる。そんなのはうんざりだ。窓から景色を眺めているとそんな気分にはならないかもしれないけれど。
 ぼくらが席につくとしばらくして、列車は動き始めた。
 駅を出てすぐの車窓からの景色は、普段見慣れた街並みのものなのだけれど、そうして旅に出るとなると、なんだか少しいつもと違う「旅用の景色」になっているような気がする。どんなに仔細に探しても間違いの見つからない間違い探し。街の景色はいつもと同じだ。タクシーが走り、バスが走り、トラックが走る。コンビニでパンを買う人がいて、ラーメン屋から出て来る人がいる。違うのはぼくの方だ。旅に出る。
 最初、妻は最近仕事であったことを喋った。列車の席につく前に買ったお弁当を食べ、缶ビールを一本空けた。ここのところ忙しく、社内の空気は剣呑だと言う。
「すぐにキャパオーバーになっちゃうの。それで怒鳴り散らして」
 そうして職場の愚痴を話した。愚痴ではあったけれど、彼女の話し方が上手いのだろう。なかなかにタフな状況ばかりのはずなのに、なんだか笑い話に昇華されている。本来、この語り手の役も妻が務めるべきだったのだ。きっと彼女の方が適任だったに違いない。
 そうしてひとしきり喋ると、妻は車窓をじっと見てこちらを振り向かなくなった。それはそうだろう。それこそが列車の旅の醍醐味だ。隣に座るぼくは、妻の後頭部ごしに外を見た。街を抜け、郊外を通り過ぎて、トンネルを抜けると窓の外は雪景色である。まるで何かの名作小説みたいだ。ぼくたちは北へ向かっていた。
 あれだけ喋っていた妻が、じっと動かずに窓に顔を向けている。顔は窓の外に向けられ、その頭はヘッドレストに預けられている。ぼくは妻は眠ってしまったものだと思った。それも仕方ないだろう。その朝、いつもなら朝寝坊なぼくたちが、早起きして旅しているのだ。むしろ、目的地までの全行程を眠っていたとしてもおかしくないくらいだ。もしも妻が眠っているのなら、ぼくを窓側の席にしてほしかったと、ぼんやりと思った。
 またトンネルに入って、窓の外が真っ暗になると、その窓に車内の様子が反射し、妻の顔が映った。妻の目は閉じられていなかった。妻は眠っていなかったのだ。
 その目は虚ろと言ってよく、どこか遠く、もしかしたら、この世のものではない何かを見ているような目付きだった。たとえば、来世や未来とか。ぼくは息を飲んだ。そんな妻の表情は初めてみるものだった。あるいはそれは、死を見詰める眼差しだったのかもしれない。死を目前にした人間が、最期に生まれた土地を訪れる、そんな印象がぼくの中に芽生えた。ぼくと彼女は死ぬことになっていて、どこか思い出深いところに向かっている。妄想だ。まったくそんなことはないのだけれど。
「ねえ」と、ぼくは妻に声をかけた。呼びかけて、止めなければならないような気分になった。
「なに?」と、妻のその眼差しはいつものものになっていた。
「いや」
「どうしたの?」
「眠ってしまったのかと思って」
 妻は、ふふふ、と笑った。
「もし気持ちよく眠っていたとしたら」と言ってあくびして「そうやって起こしたりされたらどんな気分?」
 ぼくは曖昧に笑った。
 しばらくすると、妻は寝息を立て始めた。それは今にも切れそうな細い糸のような寝息だった。 車輪が線路を鳴らしながら、列車は北へ向かっていた。

No.357

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