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さらわれた子

 まだ幼い頃、ぼくは誘拐された。それはぼくの物心つくまえの出来事だから、ぼくがその事について語れるのはのちに聞かされた話でしかない。自分の経験でありながら、その記憶は自分のものではなく、誰からか聞かされたものなのだ。主に両親、特に母から聞かされた記憶。だから、それがどの程度まで真実なのか、ぼくにはわからない。ぼくはその当事者であるにも関わらず。
 ぼくをさらった犯人たちの要求は身代金だった。その当時、ぼくの両親は派手に稼いでいたから、犯人たちに目をつけられたのだろう。警察の不手際もあって、事件は難航した。身代金の受け渡し、電話、ボストンバック、贋札。最初の接触が不調に終わった時、ぼくの両親はぼくが生きて帰ってくることを諦めたという。明らかに犯人たちはとても怒っていたし、そうした命に関する脅しが繰り返しなされていたからだ。
 しかしながら、こうしてぼくが語っていることからもわかる通り、ぼくは命を失うことなく両親のもとに帰ることができた。それはひとえに幸運による。犯人たちの不手際もあったそうだが、全てのタイミングが良かった。ぼくは警察に保護され、速やかに両親のもとに帰された。事件は新聞にもテレビにも知られるところになっていたから、父がぼくを抱えて警察署を出る時にはフラッシュの嵐だったそうだ。その時の新聞を見たことがある。誘拐されていた子供、親のもとへ。世間はこのかわいそうな家族が幸福になることを祈った。紙面からはそのことが読み取れた。紙面を読むまでもなかった。ぼくは幼い頃から、周囲の空気を読み取っていたのだ。
 世の中のすべての人たちがぼくたち家族のことを知っていた。ぼくたち一家を見ると、人々は「ああ」という顔をした。決して否定的ではない表情。ある種の好奇心とある種の哀れみのこもった眼差し。それは最悪な組み合わせだ。憎悪よりもたちが悪い。なぜならそれは善意だと思われているからだ。ほくはかわいそうな人間で、幸せにならなければならない。
 事件の後、ぼくにはこれと言った出来事もなく、普通に成長した。両親はそれまでの行いを改め、派手な稼ぎ方をするのをやめた。それで我が家は経済的にはそれほど恵まれてもいないし、困憊のしていない、ごく普通の家庭になった。ぼくは学校へ行き、恋をしたり、スポーツをしたりした。就職をし、普通に働いた。しかし、時間が経っても、ぼくに対する眼差しは変わらなかった。時とともに、当時の事件を知る人も少し減ってはきたものの、ぼくを哀れみ、幸せになることを祈られるということは変わらなかった。いつまで経っても、どこへ行っても、ぼくは「あのさらわれた子」なのだ。数学はそこそこできるけど、水泳はからっきしな子、とか、足はまあまあ速いけど、人参が嫌いな子にはなれなかった。
 ぼくはいま、幸せかどうかを尋ねられたら、たぶん「そこそこ」と答えるだろう。実際そこそこ幸せだ。かわいい恋人はいるし、仕事もまずまず順調だ。だけど、たぶんぼくは人々に望まれたほど幸せにはなっていないのだと思う。もちろん、みんなの祈ってくれたのは、ぼくの普通の幸せであり、それは今まさにぼくが手にしているものなのかもしれないけれど。そんなことを考えるとき、ぼくはたぶん不幸なのだ。

No.525


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