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ヒーローになる時、それは今

 子どもの頃に書いた卒業文集が出て来た。将来の夢の欄には「ヒーロー」と書いてあった。特撮物のヒーローに憧れていたのだとしたら、その年齢にしては少し子どもっぽいような気がする。冗談のつもりだったとしても面白くない。他の子どもたちは「野球選手」や「サッカー選手」、「医者」、「消防士」など、程度の差こそあれ現実的なものを書いていた。ぼくの初恋の女の子にいたっては「薬剤師」となっている。当時のぼくは「薬剤師」なる単語自体知らなかったに違いない。その恋が成就しなかったのは言うまでもないだろう。
 ぼくにこれと言って夢なんてなかった。たぶんそれが現実なのだ。
 卒業文集なんて見せつけられることになったのは、ぼくの実家が引き払われることになったからだ。両親はそこを売り、ふたりで暮らすのにちょうどいいマンションに引っ越すという。将来的には介護付き老人ホームに行くのだ。すべて父の差配による。完璧な計画。一人息子であるぼくに一切負担をかけないつもりなのだろう。自分の面倒をぼくに見せるのが嫌なのか、あるいはぼくに対してなんの期待も持っていないあらわれである可能性も否定できないが。
 父は非常に優秀な人だった。大手銀行で働き、順調に出世をした。忙しそうだったが、合間を縫って家族の時間もちゃんと持った。完璧な人だったと言っていいだろう。そして、引退後も完璧な仕事をしているのだ。完璧な葬式、完璧な墓。いまから完璧に目に浮かぶ。
 それに引き換えぼくは。言うまい。
 計算するまでもなく、父がいまのぼくの年齢だったころにはすでに家を買っていて、ぼくも産まれていた。ぼくはと言えば、アパート住まいに独身、何一つとして身についたものは無くて、仕事に精を出すわけでもなく、満員電車に揺られながら「早く帰りたい」と思っているような人間だ。いや、玄関を出る瞬間には「早く帰りたい」と思っている。いやいや、朝食を食べている時にはすでに「早く帰りたい」と思っている。いやいやいや、朝、目覚めた瞬間にもう「早く帰りたい」と思っている、そんな人間だ。
 何事も先送りにし、見たくないものには蓋をして、逃げられるだけ逃げ回ろうとするのだけれど、なりふり構わずなんてことができないくらいに小心者で、先送りにしたあれやこれらの焦燥に駆られ、逃げ出したくても逃げられず、「イヤだイヤだ」と、心の中で念じ続けるだけの男。
 ヒーロー?冗談だったら笑えないけれど、笑わせないでくれ。
 満員電車を降りたぼくは、力なく歩いていた。会社に向かってどうにか進む、と言った具合だ。できることなら、そこに到達したくない。ホームは人でごった返していた。いつもの光景。うんざりする。「うんざりだ」と、呟いたけれど、誰もそれを耳にはしなかっただろう。
 ぼくのすぐ前を歩いていた人、たぶんおじさんは、白杖を持った人だった。ホームの際を歩いている。「危ないなあ」と、ぼくがぼんやりと思っていると、スマホを見ながら向こうから来た人がその人にぶつかった。
 一瞬の出来事だった。そのおじさんはバランスを崩し、線路に転落したのだ。スローモーションみたいだった。ゆっくりと落ちていく白杖を持ったおじさん。それはとても非現実的な光景だった。自分の目の前で、まさかそんな事態が発生するなんて、夢にも思わなかった。
 ぼくはあたりを見渡した。その事態に気づいた人間がいないか、それを探したのだ。おじさんにぶつかった当の本人の姿はすでにない。おそらく、それに一番最初に気づいたのはぼくなのだ。
 線路に落ちたおじさんを見る。身を起そうとしているが、どこか怪我をしたのだろうか、動きが鈍い。駅員。駅員を呼ぼうと声を出そうとした瞬間、電車が来るアナウンスが流れた。電車が来る。おじさんは轢かれてしまう。
 ヒーロー?ヒーローは来ない。
 ぼくは気づくと線路に飛び降りていた。思ったよりも高さがあって、思わず手を突いた。痛みは感じなかった。
「大丈夫ですか?」ぼくはおじさんに声を掛けた。
「足が折れたかもしれない」おじさんは足を押さえている。
 ぼくはおじさんの両脇に手を滑り込ませ、おじさんを引きずった。ちくしょう、なんでそんなに太ってんだよ。誰かが非常ベルが鳴っている。電車はもうすぐそこだ。非常停止ボタンを誰かが押したんだろうけど、遅いんだよ!ホーム下の隙間にどうにか逃げ込んだが、まだおじさんの足はまだ線路の近くだ。
「足を」
 警笛。悲鳴。金属のこすれる音。ブレーキ。焼けるような臭い。ぼくは手を伸ばす。おじさんの足。引き込む。風がぼくの手の甲を舐める。車輪が作り出した風。ぼくは自分の手を見る。電車に持って行かれたんじゃないかと思ったからだ。ある。ぼくの手はある。おじさん。おじさんも無傷とは言えないけど、生きてる。どこも無くなっていない。電車が止まる。非常ベルが鳴っている。いや、ぼくの心臓か?
「ありがとうございます。ありがとうございます」おじさんは念仏を唱えるみたいにぼくにそう言った。「あなたのお名前は?」
「いや」と、ぼくは言った。「名乗るほどのものでもありません」
 カッコつけてもいいじゃないか。ヒーローってのはそんなものだろう。いや、ぼくはヒーローじゃない。明日も、明後日も、仕事に行きたくないと思いながら、全てを先送りにするぼくのままだろう。


No.424


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