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残酷な世界で傷ついたふたりが出会う話

 わたしの目の前で女の子が泣いている。わたしはどうしていいのかわからない。女の子がなぜ泣いているのかがわからないからだ。もちろん、なぜ泣いているのかが分かったところで、わたしにはなす術がないかもしれないけれど、それでも、それがわかれば、慰めの言葉のひとつでもかけてあげられただろう。それで事態が好転しなくても、少なくともわたしがそれ以上いたたまれない気持ちになるのは防げる。女の子は泣き止まない。わたしは俯いている女の子の顔を下から覗き込む。その女の子はわたしだった。わたしが泣いていた。なぜ泣いているのか、わからない。あまりにも泣く理由が多すぎるからだ。世界は残酷だ。少なくとも、わたしにとっては。だから結局、わたしはわたしになんの言葉もかけられない。女の子は泣き続ける。
「なんて残酷な世界なんだ」と、彼は言った。
「ホント、残酷な世界」と、わたしは同意した。
「君は傷付いているんだろう?」と、彼は言った。
「どうして?」
「寂しい目をしているからさ」そう言うと、彼は手を差し伸べてきた。「ぼくも君と同じように、傷付いているからさ」
 彼は寂しい目をしていた。
 わたしはその手を振り払った。彼は驚いた顔をした。心底驚いた顔だ。
「残酷な世界で、傷ついたふたりが出会う話なんてうんざり」わたしは言った。ほとんど叫ぶくらいに強い語気で。
「そう」と、彼は言って、寂しい目をした。もしも自分がそんな目をしているとしたら、ぞっとするような目だ。わたしはそれから目をそむけ、走り出した。走って、走って、走った。息が切れて、肺に火が付いたんじゃないかと言うくらい胸が熱かった。そのくせ指先は寒さにかじかんでいた。耳が凍ったみたいに痛かった。残酷な、氷のような世界。行きかう人も、寒さに身を縮めながら歩いているけれど、わたしにはわかった。その人たちには温かい場所がある。そこに向けて、足早に歩いている。ちょっとの我慢だ。ちょっと我慢すれば、温かいところに帰れる。
 わたしに帰る場所は無かった。できるのは、寒さに凍えることだけ。
 女の子が泣いている。それがわたしなのかどうかはわからない。俯いて、涙の溢れる目に手を当てている。溢れ出てくる涙をそれでせき止めようとするみたいに。
「残酷な世界だね」と、その人は言った。
「あなたも傷付いているの?」と、わたしは言った。
「傷付いているって、なんのこと?」と、その人は言った。「ああ、この残酷な世界に?」
「そう」
「傷付いていたとしたら、だったらなに?」
 わたしはその人の顔をまじまじと見た。別に強がっているわけじゃないようだ。
「わたしは傷付いてる?」と、わたしはその人に尋ねた。
「なんだって?」と、その人は尋ねた。「どういう意味だ?」
「わたしは傷付いて見える?」
 その人は、顎に手を当て、目を細め、検分すると言った様子でわたしを見た。
「どうだろうね。わからないな」
「ありがとう」と、わたしはその人にお礼を言うと、来た道を引き返した。走りに走った。まだ間に合うだろうか。心の中にはそのことしかなかった。間に合わないかもしれない。間に合わなかったら、わたしはなんて間抜けなんだろう。そんなことばかり考えて走った。
 間に合った。彼はまだそこにいた。
「あなたは別に傷付いてなんかいない」と、わたしは彼に言った。「傷付いてなんかいないよ」
「そうかもしれない」と、彼は言った。「そうかもしれない」そうもう一度言って、少し微笑んだ。
 光が射していた。残酷な世界に、美しい光が。わたしは、眩しくて目を細めた。


No.396


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