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それが夢なのだと醒めてしまったのなら

 女は窓を開け放ち、風を入れた。ほどいた髪が踊った。波の音がした。宿の部屋にこもった空気が入れ替わり、人心地がついた。潮の匂いが鼻をくすぐる。 
「そんなに身を乗り出すと」と、わたしは女に言った。「墜ちて死んでしまうぞ」わたしたちの通された部屋は海に面した部屋で、窓から見下ろすと、ずいぶんと下の方の岩場で波が砕けている。落ちればまず確実に死ぬだろう。 
 廊下を女中が客を連れて通って行った。時期が悪かった、と思った。宿に客が多い。海水浴にでも来た連中だろうか。足音を聞くだけで心の浮き立っているのが伝わってきた。季節が悪い。場所も間違った。とにかく、なにもかも、調子が外れている。いつもこうだ。 
「そんなことになったら」と、女は笑いを忍ばせながら言った。「なんだか間抜けですわね」そうしてわたしのもとに歩み寄って肩にもたれかかった。「あなたと一緒に死ぬはずなのに」
 女に誘われた時を思い出した。いや、わたしが女をそそのかしたのかもしれない。
「あたし」と給仕しながらわたしの耳元に口を近付け、女は言ったのだった。「あなたとなら、一緒に死んでもいいの」
 わたしは鼻で笑った。口ではなんとでもいえるだろう。なんと言ったところで、それが真実を伴わないことなどごまんとあるのだ。例えば、愛とか。
「本当よ」と、女は笑った。嫌味の無い笑いだった。こんな女がなぜ死など口にするのか不思議だった。 
 以前から見知った女ではあった。行きつけのカフェーの女給だったのだ。酔った勢いでからかったりもしていたのだが、そこまで深い付き合いもなかったし、女は仕事としてわたしにかまっているだけなのだと思っていた。わたしはことあるごとに死にたい、いや、死ぬと言い放っていた。あるいはそれはわたしの十八番のようなものですらあった。わたしの仲間たち、いや、わたしの周りで囃していた連中は、それを聞いて嘲笑うのだった。わたしはそれを楽しみ、そして同時に傷ついていた。道化の悲しみは道化にしかわかるまい。そして、世の人は道化になるのを毛嫌いする。道化のふりで踏みとどまろうとする。道化からすれば、それはどれほど滑稽なことか。
「本当よ」と、女給は言ったのだった。
「本当かね?」と、わたしは言った。
「ええ」と、女給は頷いた
 波の音がした。わたしは煙草に火を着けた。息を吸い込む。そして、わたしは自分が生きていたいのだと気づいた。
「死ぬのね」と女はわたしの胸に顔を埋めながら言った。
「そうだな」とわたしは言った。「お前はわたしと死ねて嬉しいのかね?」わたしは尋ねた。
「ええ」と、女は息の漏れる音のような声で言った。
「わたしのことが好きかね?」
「いいえ」と女はため息をついた。「あなたが大嫌い」そして、クスクスと笑った。
「そうか」とわたしは吸い差しの煙草を窓の外へ放った。それは音もなく落ちて行った。「それは良かった」
 人生とはつまるところ夢なのだ。我々は、夢を見続けるために目覚めないようにしなければならない。それが夢なのだと醒めてしまったのなら。夢なのだと醒めてしまったら。 
 寝汗の不快で目を覚ました。気づかぬうちに午睡をしてしまったらしかった。陽がだいぶ陰っていた。部屋に女の姿はなかった。

No.276

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